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三人の「神武」

2016年3月16日 水曜日 晴れ

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小林惠子 三人の「神武」 後漢・光武帝、奴国王、卑弥呼、高句麗・東川王の攻防 文藝春秋 1994年

考古学的には四世紀の後半まで、半島南部は同じ文化を持ち、差は見られないのだから、史料に影響されて、馬韓・弁韓・辰韓が厳密に区分されていると考えない方がよいと思う。新羅や百済にしても、中国の史料には四世紀後半までその国名が見られないから、それが紀元前後に存在していたにしても、それぞれ半島中南部にひしめいていた小国の中の一つに過ぎないのである。この時代を考える場合、これは忘れてはならないことである。つい史料にあらわれる国を確立した強固な存在と考えがちだが、そうではなかった。それぞれが離合集散、興亡ただならぬ小国群だったのである。(小林惠子、同書、p74-75)

第一次神武東遷
(補注:高句麗王の)大武神は四四年、後漢に攻められ、完敗した。捕らえられれば鄒牟のように殺される。当然、亡命したことだろう。・・・(中略)・・・「新羅本紀」にみえる、(補注:辰韓・新羅王の)脱解の出身地とする倭国の東北千里の多婆那国とは、大武神が一時寄港した丹波ではないかと考える。これが私のいう第一次神武東遷である。 しかし、大武神は丹波には長く留まらず、北九州に定着したようだ。それから十数年かけて、大武神こと脱解は北九州に奴国を形成し、その間、・・早良(さわら)王国を、続いて・・末羅(まつら)国を滅ぼした。・・それから大武神は北九州一帯に覇をとなえ、吉野ヶ里等の周辺の勢力をも支配下に置いたと思われる。・・それならば、なぜ大武神は丹波に近い大和に入らず、わざわざ遠い北九州をめざしたのだろうか。・・・(中略)・・・ 五七年、脱解が儒理王の死後、その子をさしおいて辰韓王になった、その年、奴国の使者が後漢に朝貢し、光武帝から印綬・漢委奴国王印を貰った・・・以下、略・・・(小林、同書、p78-80)

天武の時代に「記紀」は発案されているから、天武は高句麗史(原史料)と「記紀」の両方に関与できたのだ。天武は「記紀」で神武に投影されているというのは定説だが、それと同様、高句麗史においては大武神にみずからを投影させたのではないだろうか。(小林、同書、p82)

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補注 高句麗 ウィキペディアによると・・・
王家の姓[編集]
『宋書』夷蛮伝、『隋書』東夷伝、三国史記高句麗本紀では、高句麗の王族の姓を「高」(こう/カウ)としている。高句麗の王は中国史書には長らく名だけで現われており、「高」姓とともに記録に残ったのは『宋書』における長寿王が最初である。長寿王以後は「高句麗王・高璉」というように中国式の姓名表記がなされるようになり、それ以前にはおそらく姓は無かった。
三国史記では建国当初は高姓ではなく、5代慕本王までは夫余の氏族名である「解」(かい/ケ)を本姓としている[22]。高姓の由来としては、早くから中華文明に接触していた高句麗が高陽氏の苗裔として高氏とする付会を行なったとする見解[23]や、元は高姓であった北燕王慕容雲との同族関係の確認によるものとする意見がある[24]。

補注 歴代高句麗王 ウィキペディアによると・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮の君主一覧#.E9.AB.98.E5.8F.A5.E9.BA.97

高句麗王 一覧

東明聖王(ツングース民族、在位紀元前37-紀元前19年)
瑠璃明王(紀元前19-紀元18年)
大武神王(18-44)
閔中王(44-48)
慕本王(48-53)
太祖大王(53-146)
次大王(146-165)
新大王(165-179)
故国川王(179-197)
山上王(197-227)

東川王(227-248)
中川王(248-270)
西川王(270-292)
烽上王(292-300)
美川王(300-331)
故国原王(331-371)
小獣林王(371-384)
故国壌王(384-391)
広開土王(好太王、391-413)
長寿王(413-491)

文咨明王(491-519)
安臧王‎(519-531)
安原王(531-545)
陽原王(545-559)
平原王(559-590)
嬰陽王(590-618)
栄留王(618-642)
宝蔵王(642-668)

以上、ウィキペディアより引用

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