歴史のこころ

南氷洋の「洋」

 

南氷洋の「洋」

 

2010年3月8日

 

今回のブログ・シリーズでは、ただ日々の雑感を書き留めるという日記の記載以外にも、私が過去にWEBサイトに公表したもの、あるいはノートに書き残していたものなどから再掲・引用しながら、過去をも振り返り、今そして未来を考えてゆきたい。現在の視点から別の角度からのコメントなど追加してゆきたい。

まず「雪国の3月」にちなんで「南氷洋の「洋」」という文章を過去のWEBページから再掲する。日付は2005年3月20日なので、かれこれ5年の年月が過ぎたことになる。

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<以下、WEBサイトより再掲>

 

南氷洋の「洋」   2005年3月20日

 

3月も春分の頃になると、札幌でも雪解けの季節。道や屋根の雪もどんどん溶け、盤渓など札幌市内のスキー場もザラメ雪、春の悪雪となる。それでも、ここは北国。雪が溶ければそのまま春爛漫という訳にはいかない。札幌の春は寒い。5月になってもダウンのジャケットで過ごせる。私のふるさとは、岡山県の津山市。県北なので、岡山市よりはよほど寒く、雪もちらつくが、札幌のような根雪は決してみられない。冬でも路地で野菜が育つ。3月になれば、木瓜が咲いて梅が香り、菜の花がそよ風に揺れる。私にとっては、春は、ふるさと津山の「ぽかぽか陽気の春」である。だから、札幌の4月は、正直、つらい。春とは名ばかりの寒い、冬の終わりの時期である。

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私の名前は「ひろふみ」で漢字は「洋文」である。電話などで話す際、どういう漢字で書きますかと問われると、長年にわたっていつも、太平洋の「洋」、文章の「文」と答えてきた。ところが、最近、家人の電話などを聞いていると文学の「文」と言っている。文学の方が、文章よりもずっと格式が高いので、私も最近では、文学の「文」と表現することに転向した。このように、私は、名前に関しては余り節操がない。というのも、今まで、どういう謂われで洋文となったかについて両親から聞いたことがなかったのだ。私の名前は、父の9歳年上の兄、鶴夫伯父さんが考えてくださったものである、その点だけは聞いて知っていたのだが、なぜこんな漢字になったのか、その謂われに関して父母に問いただす機会が皆無であった。鶴夫伯父さんの鎌倉のお宅には、学生時代によくお訪ねしていたので、聞くチャンスはいくらでも有ったはずだが、ビルマ戦線でのさまざまな経験の話が長くて、一度も私の名前の話に及ばなかった。

ところが、今年の年賀状、鎌倉の伯母さん、貞子さんからいただいたものに、私の名前の由来が語られていた。私は昭和32年の1月の生まれであるが、昭和31年の秋(南極では春)が、日本の南極観測隊の年で、日本中で注目されていた、南極探検隊ブームの年だったのである。15年戦争の敗戦の痛手から立ち直り、その復興のシンボル的な探検隊事業として、日本国中が沸いていたらしい。私の「洋」は、それにちなんで鶴夫さんがくださった「洋」である。(一方、「文」は私の母、文子にちなんでのもの、これは子供の頃から推測していたとおり。)ということで、私の「洋」は、太平洋の洋というよりも、遙かに南、南氷洋の洋なのであった。寒々として、晴れた日には黒いほどに真っ青な南氷洋と、すさまじい音を立てて海に落ちてゆく南極大陸の巨大な氷壁を思い浮かべる。真冬、マイナス80度の風の吹きすさぶ暗闇の中での、コウテイペンギンの子育ても思い浮かぶ。探検隊の帰還の際に取り残されて越冬し、奇跡の生還をした秋田犬の一頭は、北大の植物園の一角でその余生を過ごしたとのこと。「探検隊」という名称ではなく、「観測隊」として、命からがらの帰還となった南極観測隊。が、実は、私の生涯の中で、南極に関しては、何にも知らずに今まで過ごしてきてしまった。白瀬中尉の借金の返済に関しても、10歳の息子から聞いておぼろげに知っているだけである。ロス海がニュージーランドからゆくが近いのか、チリ・パタゴニアから行った方がいいのか、皆目わからない(地球儀で見れば、ニュージーランドからゆくのが良い)。が、このままで一生を終わりたくない。私は、南極のことを少しずつでも知ってゆきたいと思う。

大学の私の部屋には、いろんな本を置いている。自分の名前の由来を知った後になってしまったが、A・チェリー・ガラードの「世界最悪の旅」(小学館、地球人ライブラリー)も立っている。最近、通読した。スコット隊の記録である。

私の生まれたのは1月17日である。この日は、金色夜叉に出てくる二人の熱海の場面として名高いし、有名人気女優の誕生日でもあった。が、今ではむろん、10年前の阪神淡路大震災の日として、我々には忘れがたい日となった。ところが、スコット隊の記録では、1月17日は、まさしく極点到達の日であった。スコットの日誌によると、1912年1月17日

「極点に立った。間違いなく、私たちはやりとげた。しかし、予想し、期待した状況と現実はかけ離れている。・・・・(略)・・・・神よ! ここは恐ろしいところだ。(同書、130ページ)」

この本の内容を、読んだことのない人に伝えるのは難しい。また、同じように南極で遭難し、全員を生還させたシャクルトンの伝記と対比されることもあるが、浅い議論は危険である。そこで、私はここでは、上記、ガラードの本から、最後の部分を引用するにとどめたい。興味ある人は、是非、読んでいただきたい。

<以下引用>

「探検とは、知的情熱の肉体的表現なのだ。

あなたが知識への欲望を抱き、それを自分の肉体で表現する力を持っているなら、迷わず外の世界に飛び出してゆくべきだ。・・・略・・・

多くの人々は、「行って何になるんだ?」と問うだろう。私たちは資本主義社会に暮らしている。目の前の利益に直接結びつかないことに夢中になったり、金を生まないことに目を向ける者はめったにいない。だから、あなたはほとんどの場合、結局は一人でソリを引くことになるだろう。もちろん、いっしょにソリを引いてくれる仲間がいたとしたら素晴らしいことだ。その仲間こそ、あなたがもっとも大切にすべき人間だろう。

今こそ、大いなる旅に出発しよう。得るものは必ずある。それが、結果的にはたったひとつのペンギンの卵であったとしてもだ。

五人の男たちは、吹き荒れるブリザードの中で、今でも私たちを旅に誘っている。私たちに知的情熱があるかぎり、未知の場所への旅や探検への欲求があるかぎり、スコット探検隊は私たちの中で永遠に行き続けるのだ。(同書、254ページ)」

<以上、引用終わり>

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最後まで日誌を記したスコット隊長のことを、そして、ブリザードの中に消えていったオーツのことを、日誌や地質標本など最後まで手放すことのなかったウィルソン、そして勇敢なバワーズのことを、私は、畏敬と悲しみなしには思い浮かべることができない。

私の生まれたのは、岡山。雪深いここ札幌とは異なり、今頃は春の日差しが暖かく、木蓮や桜のつぼみがふくらむ。そんな温暖な田舎に生まれ育って、自分の名前に何となく暖かい南国の海としての太平洋をイメージしていた。ところが、本当は、南極の氷の海にちなんだ名前という。あまりにも南過ぎる南の洋(うみ)の名前を持っている自分の現在を、それを知らずに過ごした今までの半世紀の自分と、少しだけ違った不思議な存在として眺めている。

 

<以上、WEBサイトより再掲終わり>

 

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