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天智系を正統とする不改常典

2016年2月22日 月曜日 曇り

小林惠子(こばやしやすこ) すり替えられた天皇:「長屋王の変」と聖武帝の謎 文藝春秋 2000年

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天智系の元明が主張したかったのは、天智系の天皇が正当という意味の「不改常典」だったと私は思う。 初めに天武天皇の命としながら、途中で「不改常典」を持ち出し、天智系を正統とする。元明の詔はきわめて矛盾に満ちたものだったが、この矛盾が奈良時代を通じて政情不安の要因をなしたのである。中国が正統とした天智系の「不改常典」の亡霊は、奈良時代の天武系天皇時代の天皇すべてを悩ませ、苦しめ、結局は天智系の光仁天皇(天智の孫)が即位することで決着がつくのである。(小林、同書、p128-129)

穂積が元明朝になって積極的に朝政に乗り出したのは、元明朝を指示するというよりは、高市皇子の息子の長屋王に人心が集まり、はては即位の可能性も出てくるのが許せなかったからではないか。(小林、同書、p135)

藤原不比等は文武天皇に後を託された人だから元明朝を支えた。・・しかし彼は当時の国際情勢から見て、天武系天皇の実現は無理とみたようだ。その点、強引に政治権力をふるう人物ではない政治家だったといえよう。(小林、同書、p136)

蝦狄(かてき、えみし)の狄(てき)は中国では一般的に北方の異民族をいうが、日本の場合は中国東北部発祥の土着民靺鞨と考えられている。(髙橋富雄編「東北古代史の研究」)彼らは渤海の兵力になったり、突厥に所属したり、大和朝廷の軍事力になったりしていたが、やがて一部は日本海沿岸に定着し、平安時代以後、蝦夷のなかに埋没していったようである。

長屋王は天智系の正統として唐国、特に、玄宗の支持を受けたようである。(小林、同書、p144)

開元三年(七一五)二月、黙啜の婿で高句麗の莫離支(マリキ)高文簡が、一族を連れて唐国に降伏してきた。・・(資治通鑑・唐紀二十七他)。ここで長年、唐国を悩ました突厥の反乱に終止符が打たれたのである。やがて玄宗の目は突厥支配地を越えて日本にも及ぶことになる。・・この頃、新羅の文武王=文武天皇は反唐政策を失敗して長い政治生命を終えたのではないだろうか。 七一五年二月の高文簡の唐国への降伏は、同時に文武の敗北を意味し、同七一五年九月の元明の譲位に連動していったのである。 この後、私は高文簡=文武天皇の仮定のもとで話を進めることにする。(小林、同書、p145)

元明朝の最も大きな打撃は大伴安麻呂の死だった。翌和銅七年(七一四)五月に安麻呂が没したことは実質的な元明朝の終焉を意味した。・・安麻呂が七一四年5月に没して、六月条には「皇太子が元服を加ふ」とある。・・藤原不比等は安麻呂の死を待っていたかのごとく、孫の聖武を立太子させたのである。聖武の立太子には、交換条件として元正の即位が長屋王側と約束されていたらしい。(小林、同書、p146-147)

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補注: 穂積親王 ウィキペディアによると・・・
穂積親王(ほづみしんのう、生年不詳 – 和銅8年7月27日(715年8月30日))は、奈良時代の皇族。天武天皇の第五皇子。官位は一品・知太政官事。
経歴
前半生は不明な点が多く、持統朝以前は持統天皇5年691年に封500戸を与えられた(このときの冠位は浄広弐)こと以外は詳細な事跡は不明である。また、『万葉集』によれば、蘇我氏に代わって台頭することとなる、藤原氏の血を引く但馬皇女(藤原不比等の姪にあたる)との密通が露顕し、一時左遷されていたと推測される。
大宝2年(702年)の持統太上天皇の崩御に際して作殯宮司をつとめ、慶雲2年(705年)には異母兄・忍壁皇子(刑部親王)の後任として知太政官事に任ぜられ太政官の統括者となった。霊亀元年(715年)一品に叙せられるが、まもなく母大蕤娘に先立って薨去した。享年は40代前半と推定される。
なお群馬県にある多胡碑には和銅4年3月9日(711年)の日付とともに、「太政官二品穂積親王」と彼の名が刻まれている。また彼を高松塚古墳の被葬者とする説もある。
系譜
父:天武天皇
母:蘇我大蕤娘(蘇我赤兄の娘)
同母妹:紀皇女、田形皇女(六人部王妃)
妃:大伴坂上郎女(大伴安麻呂の娘) – のち異母兄・大伴宿奈麻呂の妻
男子:上道王(?-727)
男子:境部王
和歌
『万葉集』に4首の歌が残っている。以下に挙げる、そのうちの1首は和銅元年(708年)の但馬皇女薨去を悼んで読んだ歌。
降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに
次の1首は後年になって酒宴の席で過去の出来事を思い出して詠んだ歌。
家にありし櫃に鑠さし蔵めてし 恋の奴のつかみかかりて
脚注
^ 『続日本紀』霊亀元年7月27日条
^ 『万葉集』巻16-3833
^ 『万葉集』巻4-694
以上、ウィキペディアから引用

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補注 蝦狄(かてき、えみし)WEB字書によると・・
(古代)古代日本の東北地方と北海道に住んでいた蝦夷のうち、東北地方日本海側と北海道の住民に対する呼称。
用例:「越後蝦狄に物を賜る。各差有り」(『続日本紀』文武天皇元年12月庚辰条。初見。)

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