culture & history

雄略と一言主大神との出会い

2016年3月16日 水曜日 晴れ 雪解け

上田正昭 私の日本古代史(上)天皇とは何ものかーー縄文から倭の五王まで 新潮選書 2012年

アジアのなかの古代史の再発見
日本古代史は・・(内なる要因)のみにはとどまらず海上の道によって、アジアとりわけ東アジアの動向と密接なかかわりをもって展開した。(上田、同書、p4)

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「日本書紀」に描く雄略天皇と神(補注:葛城山の神・一言主大神)との出会いは、「続日本紀」でも伝えている、天平宝字八年(七六四)の・・賀茂朝臣田守の奏言になると、いっそうちがったものになる。「雄略天皇が葛城山で狩りをしたとき、天皇が怒って、神を土佐に流した」ということになる。ここでは雄略天皇が葛城の神を追放した伝えになってくる。(上田、同書、p313)

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補注: 小林惠子説では、葛城皇子(中大兄・天智天皇)が土佐に流されたことが投影されているとする。雄略天皇には天武が投影されている。雄略と一言主大神との出会いの意義に関しては詳しい考察を要す。

補注: 天智天皇の項のウィキペディアによると・・・
^ 『扶桑略記』では病死説の後一説として「一云 天皇駕馬 幸山階鄕 更無還御 永交山林 不知崩所 只以履沓落處爲其山陵 以往諸皇不知因果 恒事殺害」とあり山中で行方不明になったとされることから天武天皇側による暗殺説もある。これには「『扶桑略記』は『日本書紀』が編纂された時代より遙かに後の書物なので信憑性は低い」とする反論がある。この反論には「日本書紀は当時(天武天皇の系譜)の政権が編纂したものなので自分達に都合の悪い事は書かない」とする更なる反論がある。<以上、ウィキペディアより引用>

補注: 御廟野古墳(ごびょうのこふん)=「山科陵(やましなのみささぎ)」として天智天皇の陵に治定されている。ウィキペディアによると・・・
御廟野古墳(ごびょうのこふん)は、京都府京都市山科区にある八角墳。古墳時代終末期の古墳である。
宮内庁により「山科陵(やましなのみささぎ)」として第38代天智天皇の陵に治定されている。
本古墳は、被葬者の実在性にも、天皇陵古墳に比定することにも問題がない、つまり、「天智天皇陵」と呼称してもほぼ間違いのない古墳である。このような古墳は非常に稀であり、他には天武・持統合葬陵の野口王墓があるだけである。築造年代は7世紀末~8世紀。古墳の大きさは、上円対辺長約46メートル、下方辺長約70メートル、高さ8メートルである。
<以上、ウィキペディアより引用>

山科御陵: http://www.asahi-net.or.jp/~ds3s-oomr/kodai/essay-2.htm より以下引用: 中大兄皇子=天智天皇は、671年12月になくなりました。『日本書紀』では数ヶ月前から病床にあり、病気により死んだということになっています。ところが、『扶桑略記』には、中大兄皇子は馬で山科に行き行方不明になり、そのまま戻らなかった。そこで沓が見つかった山科に墓を造った旨の伝承が収められています。・・森浩一『古代日本と古墳文化』(講談社教養文庫):天皇陵古墳については、陵墓参考地を含め、墳丘観察という考古学の基礎研究も一切認められておらず、そのことも図上の検討はさておき陵墓研究を約百年間停止した形になり、最近の中国などの動向にくらべ、いちじるしい立ち遅れを感じるけれども、私は御廟野古墳(天智陵)と野口王墓古墳(天武・持統合葬陵)の二基は、まず現在の指定でよいと考えている。だが、御廟野古墳が天智天皇の死後の、どの時点での造営かについてはまだ定説がなく、細かい年代の基準にはなりにくい。http://www.asahi-net.or.jp/~ds3s-oomr/kodai/essay-2.htm より引用。

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