culture & history

道徳的かつ想像力豊かな抵抗の試みとして、イランの歴史を語ること

2016年3月16日 水曜日 

ハミッド・ダバシ(Hamid Dabashi)イラン、背反する民の歴史 田村美佐子・青柳伸子[訳]作品社 2008年(原著は Iran: A People Interrupted 2007年)

太古の昔から静かに湛えられてきた歴史的感覚
その場限りのようでありながら実は太古の昔から静かに湛えられてきた歴史的感覚と、その歴史を押しやるような目的論を帯びた終局思想、このふたつが語るものの間には隔たりがある。その隙間をうずめるべく、私はイランについての本書を記すに至った。(ダバシ、同訳書、p13)

他国においても同様だが、イランの歴史を語ることは、「超大国」による無遠慮な帝国主義的傲慢に対する道徳的かつ想像力豊かな抵抗の試みだ。(ダバシ、同訳書、p13)

イランに関する本書を書くことは復権行為であり、記録の修正を図る行為でもある。・・・(中略)・・・かといって、イランの歴史や文化にバラ色の未来を描いているわけでもない。私はパフラヴィー君主政治に対しても、イスラーム教の嘘に対しても、こうした論客たちをみなひっくるめそれを一〇倍したよりもさらに批判的だ。だが私にとって近代イランの歴史を語ることは、国内における専制政治とグローバル化した植民地主義に対する挑戦と反乱の一形態なのだ。私は本書において、・・などが与えたイメージに異議を申し立て、払拭したいと考えているーーー無抵抗な、腐敗した、悪辣な文化というイメージ、捏造され、国防総省(ペンタゴン)の雇い主たちのすぐ手の届くところに置かれた、完全に悪意に基づいた言いがかりのイメージを。(ダバシ、同訳書、p17-18)

こうした危険な錯覚を引き起こした責任は、何もフクヤマやハンチントンばかりにあるのではない。このように目を逸らすやり方が、無知(故意に目を伏せることと同義)とあいまって広く行き渡り、アメリカのイデオロギー機構の一部となっている。(ダバシ、同訳書、p18)・・歴史を記すとは力に抵抗することである。理論においても実践においても、歴史を根こぎにして都合のわるいものからは目を背けさせようという風潮が、この帝国(補注:アメリカ)の無限の力を提示する方法、およびそれと闘い、抵抗しようとする相手の意気を削ぐための方法として最も不動のものである場合、特にそれが言える。・・これらの点と点、そしてこの他のいくつもの点を誰かが結び合わせ、みなが、特に若者たちが、他人を食い物にする主戦論者たちに真実をぶつけられるよう歴史的解釈を打ち出さねばならない。(ダバシ、同訳書、p19)

本書はある民が自らのアイデンティティを探究する物語、ある国家が自らの中に救いの手がかりを、その歴史的所在、つまり母国の歴史において、その地域的存在が世界においていかなる意義を持つのかを探す物語である。イラン人は常に勝利を目前にしながら、完全に打ち負かされるでもなく、そのたびに立ち上がらざるを得ないという長い闘争にかかずらわされてきた。彼らの物語は、世界中にいるごく普通の、良識ある人々の物語そのものなのだ。私はそのありふれた人間性、儚い希望、自由への飽くなき行軍の物語を綴りたいと思う。(ダバシ、同訳書、p21)

イラン人は詩に対し極めて真摯であるーーー歴史的回想、つまりわれわれが過去を振り返る際、一種詩的な言い回しをするのはこの習慣によるところが大きい。・・ペルシア詩こそイラン文化の鼓動であり、集団的記憶の中に流れる韻であり、そしてリズムである。(ダバシ、同訳書、p26)

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補注 ダバシ氏のウェブサイト:
http://hamiddabashi.com/current-affairs/

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