2017年3月8日 水曜日 曇り
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Charles Dickens, Great Expectations, 1860-1861; Penguin Classics, 1996, 2003.
ディケンズ 大いなる遺産 石塚裕子訳 岩波文庫 赤229-9、229-10 2014年
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今日は文学のテーマと言うよりは、英語の時制表現の翻訳に関する話題である:
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二月末のある午後のこと、ぼくは黄昏れる頃に埠頭でボートから上がった。引き潮に乗ってグリニッジまで漕いでいき、潮流で向きを変えた。その日は良く晴れわたったうららかな日だったのに、日が沈むと霧が垂れこめてきた。ぼくは船舶の間をかなり慎重に手探りするようにして戻らなければならなかった。(以下、略)(石塚訳・下巻、p254)
One afternoon, late in the month of February, I came ashore at the wharf at dusk. I had pulled down as far as Greenwich with the ebb tide, and had turned with the tide. It had been a fine bright day, but had become foggy as the sun dropped, and I had had to feel my way back among the shipping, pretty carefully. (ibid, p382)
補註 石塚訳を分析してみると:
1)二月末のある午後のこと、ぼくは黄昏れる頃に埠頭でボートから上がった。
2)引き潮に乗ってグリニッジまで漕いでいき、潮流で向きを変えた。
3)その日は良く晴れわたったうららかな日だったのに、日が沈むと霧が垂れこめてきた。ぼくは船舶の間をかなり慎重に手探りするようにして戻らなければならなかった。
上記、3つの文の時刻(時間帯)は
1)は、黄昏時、日が沈んで少し薄暗くなったころ。ウィキペディアによると・・・
黄昏(たそがれ、たそかれ、コウコン)は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯である。黄昏時(たそがれどき)。黄昏る(たそがれる)という動詞形もある。西の空から夕焼けの名残りの「赤さ」が失われて藍色の空が広がると、「まがとき=禍時」という時間帯に入る。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略である。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味である。この風習は広く日本で行われた。「おはようさんです、これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされる。
対になる表現に夜明け前を表す「かわたれどき(彼は誰時)」があり、本来はいずれも、夜明け前・日没後の薄明帯を区別せず呼んだと推測される。<以上、ウィキペディアより引用終わり>
2)は、午後の数時間にわたっての行動。
3)は、日が沈んだ後の時間帯。
1)でボート漕ぎを終了、2)3)ではボートを漕いでいるわけである。従って、時間経過の順に並べると、2)→ 3)→1)の順に書かれていないと意味が不明になる。素直に1)2)3)と読み進めると、不思議に矛盾した感覚に襲われるのである。そこで、英文を対照してみると・・
原著英語は明確である。
1)One afternoon, late in the month of February, I came ashore at the wharf at dusk.
2)I had pulled down as far as Greenwich with the ebb tide, and had turned with the tide.
3)It had been a fine bright day, but had become foggy as the sun dropped, and I had had to feel my way back among the shipping, pretty carefully.
上記で、1)は単純な過去形、2)3)は過去完了形であるから、1)を過去形で述べた後、2)3)を過去完了形で叙述すれば、2)→ 3)→1)の順であることは分かりやすい。
さて、ここで考えてみたいのは、英語のこんな表現に出会ったときに、どのように訳すかというテクニックの問題である。
1)二月末のある午後のこと、ぼくは黄昏れる頃に埠頭でボートから上がった。
<1)の補足 ボートから上がるまでの次第は以下のような順序で進んでいたのである>:
2)引き潮に乗ってグリニッジまで漕いでいき、潮流で向きを変えた。
3)その日は良く晴れわたったうららかな日だったのに、日が沈むと霧が垂れこめてきた。ぼくは船舶の間をかなり慎重に手探りするようにして戻らなければならなかった。云々
<そして・・1)の時点に話は戻る>:
上記のように補足すると、時の流れには忠実だが、表現は野暮ったい。叙述の不自然さに、却って思考の流れが蹴躓く。
ならば、以下のごとく、叙述を時間経過に素直に並べ直して、全てを過去形で統一してしまうという手もあろう。もし科学論文を書くための添削指導であれば、私なら以下のような書き方に直していたに違いない。その場合、英語でも日本語でも同じストレートな表現である。
1−1)二月末のある午後のこと、
2)引き潮に乗ってグリニッジまで漕いでいき、潮流で向きを変えた。
3)その日は良く晴れわたったうららかな日だったのに、日が沈むと霧が垂れこめてきた。ぼくは船舶の間をかなり慎重に手探りするようにして戻らなければならなかった。云々
1−2)ぼくは黄昏れる頃に埠頭でボートから上がった。
原著者ディケンズに上記のような淡々とした叙述を心がけてもらえれば、海外の翻訳者も苦労はしないわけである。が、ディケンズは少し凝った表現をしたかったのである。読者もそのちょっぴり凝った文学の表現を楽しめるのである。
完了形や過去完了形の英語に対応する日本語の簡潔な表現がないのであるから、時々はこんなことで苦労することもあるかもしれない。それはそれで面白いと思えばよいだろう。
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