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ディケンズ 我らが共通の友(中)

2017年6月15日 木曜日 雨

C・ディケンズ 我らが共通の友(中) 間二郎訳 ちくま文庫

彼(=ユージン)に欠点があるのは分かっている、でもその欠点は彼の寄る辺ない気持ちから生まれたものなのーー何も信じられるものがない、大事にしたいものがない、これはと思えるものがない、だからそうなの。(補註1) そして彼女(=想像上のお金持ちで美しいレディ=つまりリジー本人の架空の姿)はーーあたしなんか足元にも寄れない、このお金持ちで美しいレディは、こうも言ってる。「・・略・・ 取るにも足りない私がいくらかでもお役に立つことで、今よりもずっと立派なあなたになって頂けるかもしれないんですもの」って(補註2)(同訳書、p140)

「女の心がーーあなたが言われた弱さを持つ女心がーーなにか得しよう、などと思うものでしょうか?」リジーは問い返した。この問いは、ベラが自分の父親に宣言したあの人生観と真正面から対立するものだったので、彼女(=ベラ)は胸中に呟いた。「ほらね、おまえなんか我利我利亡者の人でなしなのよ!いまの言葉を聞いたでしょ? 自分を恥ずかしいとは思わないの?」(同訳書、p478)(補註3)

「・・ほんとに、心の底から愛してるんですーーですから、あたしの人生はつらい事の連続なんだろうと思う時も、あたしはそれを誇らしく、嬉しく思うんです。あの方のためになにかに耐えていくことが、誇らしく、嬉しいーーそれがあの方になんの役にも立たないのはもちろん、あの方はそんなこと知りもしないし気にかけてもいない。でもいいんです」(同訳書、p479)(補註4)

「・・でもあの方の目が与えてくださった光明は、ぜったいにあたしの人生から失いたくないんです。どんな幸せに換えても。・・」(同訳書、p480)(補註5)

補註1 ここのところ、すなわちユージン・レイバーンの「寄る辺ない気持ちから、彼の欠点が生まれる」・・それをもう少し明確に詳しく描いて欲しいものであるが、極めて簡潔に、しかもリジーの視線から叙述されているだけなのである。「二都物語」のシドニー・カートンの役作りの際にも感じさせられることであるが、「ここに至るまでの経過」が描かれておらず、「ここに至ってしまっている」人物が「変わることなく」活躍する・・従って、EMフォースターの言うところの「円球人物」として成長ないし退化する「時間」は描かれていない・・という小説の構造なのである。しかし、このディケンズ・ワールド、それはそれで楽しい。「扁平人物たち」が織り成すディケンズ「空間」、その描写の世界も素晴らしく、楽しめるのである。

補註2 リジーがここまで献身的にユージンを愛するようになったその経緯も正面切っては語られていないのが、ディケンズ小説の世界である。
 こんな美女でここまで性格の良いリジーであってみれば、シンデレラ物語としてどんな王子とも結ばれて良いはずであるが、それが何故、ここまで欠点の多いユージンなんかに献身的に結ばれねばならないのか、と現代人なら考えてしまう。が、何しろ150年前のヴィクトリア朝の身分社会であってみれば、紳士のユージンと貧しく教育のない生い立ちのリジーとの段差は絶望的に超え難いものであって、これ以上のものを超えさせるのは、保守漸進的なディケンズには難しかったし、たとえ小説でも扱いがたい荒唐無稽となったのであろう。むしろ、(当時としては)ここまで厳しい超え難い壁を越えさせるディケンズの悩みと勇断に注目すべきなのである。

補註3&4 リジー(ロンドンを去って、秘かに田舎に身を潜め、工場で働いている)が(ベティ婆さんの埋葬に際して)訪ねてきたベラに、気持ちを語る場面。

補註5 「リジーがここまで献身的にユージンを愛するようになったその経緯」(補註2参照)が、リジーの口から語られる場面。理路整然という理性の世界ではなく、恋という心の世界の働きだから、まさに、この時のリジーが語るような語り口が正しいのであろう。小説でも直接的な描写言葉で語れない、人と空間と時間とを描写するしかなかったのかもしれない。

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「あいつ(=秘書のロークスミス氏)だって従僕どもと同じなんだ。こっちがあの連中を踏みにじるか、こっちがあの連中に踏みにじられるか、ふたつにひとつだってことがわしには分かってきたんだ。あいつらは、わしら(=ボッフィン氏夫妻)の昔のことを(たいていは嘘っぱちだが)もう知ってるんだ。こっちが初手から強く出なけりゃ、馬鹿にされるのがおちなんだよ。もとを洗えば、せいぜいのところがおれたちと似たもんじゃねえか、なにが偉い? とくるわけさ。気を許さずにつっぱり通すか、やつらの足もとに身を投げ出すか、そのどっちかを選ぶしかないんだ。本当だぜ」
 ベラは思い切って、睫毛の下から一瞬そっと彼(=ボッフィン氏)の方を盗み見た。以前は晴れやかだった彼の顔には、疑念、貪欲、うぬぼれが暗いかげりを投げていた。(同訳書、p360)

「でも、ボッフィン氏の側に、許してもらう必要なんてあるのかしら?」ベラは自室で椅子にかけながら考えたーー彼が言ったことは理にかなっている、そうよ、まさにその通りなんだわ。あれはあたしがしょっちゅう自分に言っていることそのままじゃないの。それなのにこんな気持ちになるなんて、あたしがそういう考え方を好きじゃないということかしら? そう、好きじゃないんだわ。そして彼はあたしにとって大恩人なんだけど、ああいう考え方をする彼に軽蔑を感じてしまうんだわ。それならばよ」ベラはいつもの通り、姿見にうつる自分の姿にきびしくこの質問をつきつけた。「いったいあんたはどういうつもりなの、矛盾だらけの、人でなしの小娘さん?」・・・(中略)・・・そして翌朝彼女は、またもや黄金の塵芥屋の表情にあのかげりをさがし、それがいっそう濃くなっていはしないかを確かめようとした。(同訳書、p363)

補註 扁平から突如円球へと変貌し、退縮(=ボッフィン氏)・成長(=ベラ)していく二人が描かれている、ややディケンズ離れした人物二人である。
 汚れ役のボギー(ハンフリー・ボガート)主演の映画「シィエラ・マドレの黄金」、あるいは、ご存じ「指輪物語」の魔術に囚われた人々を彷彿とさせるこのボッフィン氏の変貌、そしてその魔術の中にすでに呑まれていたかに描かれていたベラが、魔法には囚われていない新たな自己を見出し、その自分に問いかけながら生き方の答えを探し始める場面である。
 「彼(=ボッフィン氏)が言ったことは理にかなっている、そうよ、まさにその通りなんだわ。あれはあたし(=ベラ)がしょっちゅう自分に言っていることそのままじゃないの」・・つまり、極めて「ありきたり」の事象の描写ながら、ディケンズが描くと映画の一場面を見ているように印象的である。

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2017年6月16日 金曜日 晴れ

Charles Dickens, Our Mutual Friend, Penguin Classics, 1997 (First published in two volumes 1865)

補註 間二郎訳の同書、上中下の3巻本で日本語文庫で恐らく1500ページ以上。先ほど、中巻566ページを読み終えた。下巻に関しては、「¥ 3,738 より 7 中古品の出品」などとなってプレミアムがついており、なかなか手の出せる額ではないので、残り3分の1は原書で通読し始めることになる。

ちくま文庫版ではなぜか挿絵がカバーに一枚だけで残念であった。たとえば、中巻の挿絵は、ロジャー(ローグ)の娘・プレザント嬢が謎の人物(ロークスミス氏の変装)の訪問に緊張して髪をたくし上げる仕草をする場面ーー何気ない場面であるが、筋の展開ではかなり重要な場面(ペンギン版では Miss Riderhood at Home のレジェンド入り、p349)ーーこの一枚だけ。

一方、ペンギン版はオリジナルの挿絵が全て載せられていてありがたい。ぺらぺらと捲って見ると、ベラ嬢がボッフィン氏の本屋さん巡りに付き合う場面ーーベラは小顔で長身、ごつい大顔のボッフィン氏よりもすらりと背が高い美女に描かれている。圧巻のベラとリジーとの出会いの場面は・・残念ながら挿絵なし。

さて、訳本に頼って3分の2までは安直にたどり着けたものの、これからの3分の1の道のり、ディケンズ英語はかなり難解であり、最後までたどり着けるかどうか、危ぶまれる。

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