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恋愛は、分離をともなった結合。

2021年12月15日 水曜日 曇り

福田恆存 私の幸福論 ちくま文庫 1998年(1979年高木書房版をテキストとした。オリジナルは昭和30〜31年・講談社の「若い女性」に連載)

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女は、自分の子の父を求め、それを自分と子どものもとに縛りつけておこうとする。

・・母系家族の時代が父系家族の時代に変わってきたのは、男が経済力の中心になったからだというのが定説ですが、そればかりでは割り切れますまい。やはり、自分の子の父を求め、それを自分と子どものもとに縛りつけておこうとする女の本能が、この歴史的変化の大きな原動力になっているのではないでしょうか。(福田、同書、p158)

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恋愛は分離をともなった結合:

 ・・「まだ愛しているのに」と意識している女より、「もう愛してはいない」と意識している男のほうが、じっさいには愛していることさえありうるのです。恋愛はおたがいの意識だけで計れるものではありません。したがって、その幻滅の意識が、ただちに恋愛の終結を意味するものとはかぎらないのです。私たちは幻滅にぶつかったとき、早まって絶望してしまってはならない。むしろ、幻滅こそ出発点であります。

 一口にいえば、恋愛とはたえず一緒にいたいという結合の感情でありましょう。同時に、それは相手から離れ去りたいという分離の感情をも含んでいるのです。前者は目を閉じて、おたがいの差に気づくまいとしています。が、後者は目を開いておたがいの差に気づこうとしています。ふつう恋愛というとき、ひとびとは、この盲目の結合感情のみをさし、明察しようとする分離感情を無視しがちです。無視するどころか、それを恋愛と対立する敵意と混同したりします。が、それはまちがいです。恋愛にも、親子の愛情にも分離と孤立との意識が、つねに見られます。それがなければ、真の愛情は成立しえないのです。また、それによってのみ、二人の愛情は強く鍛えあげられるのです。それは、いわば、刀を鍛えるときの水の役割をします。この熱を冷却する水がなければ、鋼は強くなりません。(福田、ふたたび恋愛について、同書、p163-164)

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