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問題の解決のために為しうる一切を為さずにいられない:傍観者の正反対のもの

林竹二 田中正造:その生と戦いの「根本義」 二月社 1974年

2015年8月17日 月曜日 曇り

 正造は当時も今も、「有力」ではない。それは正造がつねに傍観者の正反対のものであり、したがって「簡易正直の論」にとどまれなかったからである。彼の思想の複雑さ深さは、同時代の民権論者たちとは比類を絶している。それはつねに決して傍観者でなかった彼の生きる姿勢の中に究極の原因をもっていた。(同書、p38)

 しかし、いうまでもなく、政治を捨てるところまで鉱毒問題に深入りさせたものは、正造の無学でも無識でもない。却って、局地的なこのいわゆる小問題の中に、ふかく人間と国家の関係にかかわっている、この意味で本来的な政治の問題を看取する彼の眼と、問題の解決のために為しうる一切を為さずにいられない人間的誠実さが、これをさせたのである。財力と勢力をもつ古川と結託する政府の、権力と法による不正と強暴によって人民が滅ぼされつつあるのを、彼は見る。またこのようにして国家が自らを滅ぼしつつあるのを見る。もし議会がこのような事態の進行をくいとめることに責任をもたず、無力で無気力であるならば、そのような議会に止まることを、正造の政治家として人間としての責任感は許さない。こうして正造は、「皮相で」「気楽な」政治を捨てるのだが、これによって、正造は二十三年前の誓いに忠実であることができたのである。(林、同書、p39)

政府はこの時、実は、渡良瀬川沿岸十万の人民の権利ーーー生活し、生きる権利ーーーと足尾の鉱業との間の、選択をせまられていたのである。政府はほとんど何の迷いもなく、したがって苦悩もなく、極めて自然に鉱業を選択した。少なくとも、われわれは政府答弁に、些かの苦渋のあとをも読みとることができない。その秘密は、足尾銅山の、古河という一企業体の私的な利益追求の営みのうちに政府が「国益」を見ていたことにある。そこに国益、国利を見たことによって、足尾銅山の鉱業の継続が公共の利益となった。逆に十万の人民の生活と生命が鉱毒によって破壊されることは、公共の安寧にかかわるところのない事実となったのである。(林、同書、p67)

夥しい費用の増加に堪えかねた銅山当局はついに捨石場の廃石や鉱滓を渡良瀬川に捨てるという非常手段に訴えた。・・・(中略)・・・会社はツルハシやダイナマイトを使ってこれを破砕して、その破片を暴風雨の襲来をまって渡良瀬川に投げ捨てていたのである。(同書、p70)

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