2016年3月31日
(白川、後期万葉集 中央公論社 1995年、p35)
「見ゆ」と似た呪語的歌詞に、「見れど飽かぬ」という語があって、約四十六例を数える。
「見ゆ」が被動態であるのに対して、「見れど飽かぬ」は対象に積極的にはたらきかけ、これを称賛することによって呪祝の意味を貫徹しようとする姿勢のものであるといえよう。(白川、同書、p36)
「見れど飽かぬ」という強いはたらきかけのことばは、「見れど飽かぬかも」と結句にすえて、はじめて存在そのものを視覚的に把握する意味を表現しうるのであって、「見れど飽かぬ麻里布の浦」のように修飾語に用いては、説明に堕して、対象の内なるものにはたらきかける強い詠嘆の意味を失うのである。この語においても、これらの後期的用法は、「見ゆ」と同じく、すでにその意味論的な文脈を喪失している。
「見れど飽かずけり」は自己詠嘆的な歌いかたで、国ほめ的な意識で歌ったものではない。・・呪語的意識はすでに稀薄である。「見れど飽かぬ」は、のち多く寿頌(じゅしょう)に用いる。生い栄える木や花、また月明などにもたぐえていうことがある。
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