文化人類学

この世とあの世との関わり合い

2016年12月12日 月曜日 雪(のち晴れ・正午現在)

岩田慶治 カミと神 アニミズム宇宙の旅 講談社学術文庫 1989年(初出はさまざまだが、主に1983年頃)

一般に、アニミズム(Animism)と呼ばれている宗教の形は、あらゆる宗教の基盤によこたわっている、もっとも原初的なカミ観念にもとづくものだとされている。シャーマニズムも、多神教も、一神教も、この宗教的土壌のうえに成長したものと考えられている。しかし逆にいえば、それはもっとも萌芽的な、未開な、あるいは野蛮なものの見方で、その後の文化の発達にともなって克服されてしまったカミ観念だとも見なされている。そういうアニミズムを再検討し、そのなかにもっとも大切な意味を発見しようというのが、当時の私の意図であった。アニミズム再興を企てたわけである。(岩田、同書、p46)

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伝統文化のなかにおけるこの世とあの世、現世と他界との関係、二つの世界のかかわり方について:(同書、p220)
(1)生きものの空間構造ーーーその原型
(2)山地・島嶼(とうしょ)に住む焼畑栽培民の場合ーーーたとえばボルネオ内陸
(3−4)平地の水田耕作民族の場合ーーーたとえば東南アジア平野部および日本の農村
(5)現代大都市住民の場合

(1)では、あの世とこの世がぴったりと一枚になっている。二つの世界が表裏一体をなしている場のあり方。
(2)ボルネオのドゥスン族の場合、他界の山は同時に現世の山。かれらにとっては、この世の向こう側にあるという他界のありさまが現実にみえているのである。マレー半島中部に住むスムライ族の場合、他界は西方はるかかなたにあるわけで、その姿は見えない。しかし、死者の近くにランプと食糧を置くことによって、また死者の足を西方に向けてよこたえることによって、あたかも他界がその方向にあるかのように実感させることができる。
(3−4)一方、今日の日本について見ると、沖縄などの若干の例外を除いて、あの世というものがどういう形をもったものであるか、かならずしもはっきりしていない。いわゆる近代化とともに、他界観念が変貌してしまったからであろう。
 折口コスモス(マレビト): 眼に見えない他界(あの世)から、毎年時をきめて「まれびと」がやってくる。・・その「まれびと」の姿をみることによって、眼に見えないあの世の存在が疑いないものとして納得されてくる。
 柳田コスモス(先祖のいる裏山): 人が死ぬと、先祖となったその人の魂は家の裏山の頂きに宿って、そこから子孫の村びとの暮らしを見守っている。・・このばあいには、はるかかなたの他界を構想するのではなくて、ごく身近な裏山とその山の麓に展開するこの世の村びとの生活が、この世とあの世との一種の縮小されたモデルとして役立っている。
(5)では他界なし、現世のなかの亀裂あり。現代文明のもとでは、この世あってあの世なしという状態になっている。・・儀礼に参加する人びとのこころのなかにはあの世はもはや存在していないのである。・・あの世は切り捨てられたのである。(同書、p222-223;またp221の図より)

この世とあの世とのかかわりあい:もっとも本質的・原初的な、あるべき姿は一つ。
そのばあいにはこの世とあの世が正しく向かい合う。そして、もしそれができるならば、この世があの世で、あの世がこの世であるというふうに、表裏一体となった関係にあることが、人間にとってもっとも望ましい姿、やすらぎの世界のありようではないかと思うのである。
 そして、われわれがいろいろな方法によって、願い求めている鎮魂の儀礼あるいは鎮魂の呪術というものは、結局のところ、この世とあの世とが正しく相対し、この世にあの世が映り、あの世にこの世が映るという関係をつくりだそうとする、そういう動的な一元世界を創造しようとするための行為にほかならないのではないかと思うのである。・・・鎮魂の呪術の背後には、世界観の歪みの調整、あるいは創造的世界観の回復というひとつの真実がひそんでいたと思わざるをえない。そして、世界観のあるべき姿を回復するということと、人間における心身関係、身体と魂のあるべき関係を回復するということとは、実は別なことではなくして、二にして一、一にして二という関係にあるのだと思う。身体のしかるべきところに魂を位置づける。その魂を生き生きとよみがえらせる。そういう行為、それが伝統的世界観の修復作業の出発点になっているのだと私は見ているのである。(cf.岩田「鎮魂の座標」、「カミの人類学」所収)(岩田、同書、p224-225)

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