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孤独にさいなまれ淋しくてたまらぬとき、ぼんやりと思い出に浸っていると、なぜかしら相手もやはり私のことを思い出し、私を待ちつづけ、やがて私たちは再会するのではないかという思いが少しずつ募ってくる・・ミシュス、きみはどこにいるのだろう。

2024年12月14日 土曜日 晴れ 

チェーホフ かわいい女・犬を連れた奥さん 小笠原豊樹訳 新潮文庫チ13 昭和45年発行(オリジナルは1896〜1904年頃)

 ・・ここへ初めて来たときの道を逆にたどって私はこの屋敷から去った。中庭から庭園へ、家の前を通り、それから菩提樹の並木道を・・そのとき一人の少年が私に追いついて、手紙を渡した。『すべてを姉に話しましたら、どうしてもお別れするようにと言われました』と、その手紙には書いてあった。『自分のわがままで姉を悲しませることなど、とてもできません。どうかお仕合わせにお暮らし下さい。私をお許しください。私と母がどんなに辛い思いをしているか、お分かりいただけるでしょうか!』

 それから暗い樅の並木道、こわれた生垣・・あの頃ライ麦が咲き、鶉(うずら)が啼いていた野原には、今、牛や、脚をつながれた馬たちが放牧されていた。丘のそこかしこには秋播きの麦があざやなか緑に映えていた。私は酔いから醒めたような日常的な気分に捉えられ、ヴォルチャニーノワ家で喋ったことが恥ずかしくなり、生きることが再び以前のように退屈になった。家に帰ると、私は荷物をまとめて、その晩ペテルブルクへ発った。(チェーホフ、中二階のある家、同訳書p40)

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 私はもう中二階のある家のことを忘れかけているが、ごく稀に、絵を描いているときや本を読んでいるときなど、突然、あの窓の緑色のあかりのことや、恋心を抱いて寒さに手をこすりながら夜ふけの野原を家へ帰ったときの自分の足音などを、なんとはなしに思い出すことがある。そして更に稀なことではあるが、孤独にさいなまれ淋しくてたまらぬとき、ぼんやりと思い出に浸っていると、なぜかしら相手もやはり私のことを思い出し、私を待ちつづけ、やがて私たちは再会するのではないかという思いが少しずつ募ってくる・・

 ミシュス、きみはどこにいるのだろう。(チェーホフ、中二階のある家、同訳書p41-42)

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補註: この喪失感・・

「この木戸をとおって・・ https://quercus-mikasa.com/archives/13898 」・・ 「この木戸を通って: いつかは必ず思いだして帰ってきてくれるだろう。」

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