catastrophe

アフター・フクシマ

2015年1月15日 木曜日

西谷修 アフター・フクシマ・クロニクル ぷねうま舎 2014年  読み始める。

2015年1月20日 火曜日 同書、読了。今日は、猛吹雪と大雪。道路が真っ白で何も見えなくなる。行き慣れた通りが、誰もいない未知の空間となり、ひょっとして反対車線を逆走しはしないだろうかとパニックのような不安にとらえられる。レストランでお昼を食べて出てくると、駐車していた車の上に10cmほどの雪が積もっていた。札幌では今年一番ぐらいの吹雪かもしれない。

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世界で最初の核惨事は、1957年に旧ソ連の南ウラルのキシュテム市付近(秘密都市チェリャビンスク-65近郊)で起こった。極秘にされていたが、75年にイギリスに亡命した科学者ジョレス・メドベージェフが「ウラルの核惨事」を発表して知られるようになった核廃棄物処理場の事故だ。ただ、SF作家のストルガツキー兄弟がこれを題材に小説を書いた。「路傍のピクニック(ストーカー)」という。(西谷修 アフター・フクシマ・クロニクル p169 ぷねうま舎 2014年)

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「危険」は、“核”を扱う技術そのものにある。にもかかわらず、核技術は「安全」だとしなければ原発は維持できない。虚偽と隠蔽の構造はそこから始まる。(西谷修「アフター・フクシマ・クロニクル」p61より引用)

・・・“核”はもともと虚偽と隠蔽によってしか維持できないのだ。“核”ほど、国家と人間の利害を対立させるものはない。(ditto p62)

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「もし」を想定しなかったら、原発の場合、取り返しのつかないことになる、というのが福島第一の教訓である。(同書p120)

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TNT火薬の10万倍規模の破壊力をもつ核エネルギーは、どこでも国家規模のプロジェクトとしてしか遂行できない。その性格はいわゆる「平和利用」においても同じである。国(官僚、政治家、軍)と学会、産業界をあげて行われるこの開発は、とうぜんながらメディアを巻き込む。「民主主義国」であればなおのこと、国民の「支持」を作り出すためにメディアが挙げて動員される。戦時なら国家の最高機密、平時なら国を挙げてのプロパガンダが、起こっていることの「真実」を覆い隠す。総力戦以降とも言うべき、このような組織的体制が核技術にははじめからつきまとっているのである。*(ditto p190-1)

*HH注 藤永茂 ロバート・オッペンハイマー: 愚者としての科学者 朝日選書 1996年 もご参照ください。

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人間の経験的次元も歴史的次元も超えた持続、それを人は「永遠」とか「永劫」などと呼んできた。核技術の使用によっていま人間に必要となっているのは、その「永遠」を守護することである。それはこれまで人間の務めではなかったのだが、いまや「未来」は目に見えるものになり、しだいに翳りを深くし、むしろ人間は過去を哀惜しつつ埋葬し、未来に向かうのではなく、来たるべき間近ないまを守るために遠い未来をあらかじめ哀悼しなければならないかのようである。(ditto p168-9)

「永遠」に向き合うことは、かつてはどこでも神官たちや宗教者・聖職者たちの役割だったが、核技術はそれをこれからの人間全体(人類)の課題にしたのである。あらゆる宗教的な恐れや迷信から解き放たれて、そういうものとは無縁に自然を解明し操作しようとしてきた科学技術は、“核”を解き放つことで逆に人類全体を剥き出しの「永遠」に直面させることになってしまった。これ以後、人類は「恐れ」のなかに生きることをまぬがれない。そして、恐れの対象を封じ込める方法は、この映画*の扱うフィンランドのオンカロのような永遠不可侵の施設を作るほかにない。つまり「至聖所」を作るということだ。(ditto, p188)

*マイケル・マドセン監督「10万年後の安全」原作 Into Eternity フィンランド・デンマーク・スウェーデン・イタリア合作映画。NHKBSでは「地下深く永久にーーー核廃棄物10万年の危険」のタイトルで放映された。(ditto, p157)

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・・・だがその「自由」の実現のために開発された巨大技術の効果によって、自然に埋め込まれていた10万年の時間が暴き出され、解き放たれてしまい、それが「未来」を石化し始める。「未来」への衝動は、人類の未来を曇らせる。こうして、齢を数えるべくもなかった「未来」は、いまや人間の時間の次元をはるかに超えて数えねばならないものになっている。
グローバル化の環は閉じられた。誕生以来わずか一世紀半で世界を領導した「アメリカの世紀」はすでに終わろうとし、近代の自燃システムは燃え尽きようとしている。われわれは打ち破られた「近代」の200年の時間のうちにとどまるべきか、それともその外に歩み出るべきか。・・・「終末」はいつも遠く、つねに「未だ来ていない」とすれば、明日でも、十億年先でも同じことである。だが、いまや予兆がある。その予兆のなかで人間は時を数えなければならない。その数えねばならない時間を、つまりは有限の時間に向き合い、それを「無限」へと転化して、別の「自由」の可能性を引き出すすべを、人間は発案してゆかねばならない。(ditto, pp195-6)

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