菜園日誌 170726 コスズメ続く

2017年7月26日 水曜日 晴れ

快晴の爽やかな朝。朝からブドウの整枝誘引、そして主にコスズメとコガネムシ退治である。午後2時までの6時間で、8列半、850本を見てまわった。ソーヴィニヨン・ブラン(400本)で16匹、シャルドネ(200本)で8匹、バッカスと5C(250本)で、7匹、計31匹のコスズメを見つけた。そのうちの一匹は、被害の痕がある木にムシが見つからないため、試しに苗の根元に繁っている草を抜いてみたところ、大きなコスズメ幼虫を見つけたものである。終齢幼虫で充分に食い足り、これから蛹になろうとしていたのであろうか。根元を掘れば見つかることがあるとの貴重な成功例をもとに、その後は、被害樹の地上の枝を探しても見付からない場合には根元の草を抜いてみるという試みを続けたが、結局一匹も見つけることはできなかった。諺でいうなら「柳の下にドジョウは居らぬ」ということになろう。

取っても取ってもまた見つかる・・果てしなくコスズメ探索を続けているうちに時間はどんどん過ぎ、夏の強烈な陽射しの下、意識が途切れそうになる。

午後は残りのブドウも見てまわるつもり。これ(コスズメ退治)ばっかりで時間が過ぎるのはややもったいない気持ちがする。

大きいのを見つけると、すでに時遅しの状態である。大きいのを見つけた時点で、その枝の成長点とその近傍は丸坊主(ないし全体ほとんど丸裸)にされている、つまり防(除)は半ば失敗である。小さいものを見つけなければならないが、これは非常に見つけにくい。大きいものと巨大なものを4匹みつけても中ぐらいのもの1匹を見つけるのがやっとである。「大きいので防除は簡単である」と書いてあるものをどこかで見たことがあるが、何という愚かな記載であろうか。農作業というものをやったことのない人の戯言であろう。

それでも、小さなコスズメ幼虫(捕まえると、ひ弱な感触である)を見つけることもあるので、私の見回り作業は少しは役立っているはずであるが。

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ためしにバッカスでも元気に育っているものをψ誘引仕立てにしてみた。この作業はこの時期には(新梢が柔軟なため)容易(たやす)い。数週間前のように根元でポキッと裂けてしまう危険も少なそうだ。ただし、今の新梢が来年の春の段階で「木」になっていなければ、冬の間に枯れてしまうわけで、今の仕立て作業は全く無駄になってしまう。来年の春に垣根に結わえ付けるときに仕立てるのとどちらが賢いか、もう少し経験を積まないと答えられない。

今回の株間は1.5メートルであるが、シャルドネのように元気よく育つのを見ていると、株間はもっと広く、たとえば2メートルでも充分だったかもしれない。来年の新植からはそうしてみようか。

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午後、続き。シャルドネ、7列8列、バッカス、9-11列、計450本で、コスズメはシャルドネに17匹、バッカスに11匹、計28匹。午前の31匹との総計は59匹、今期最悪の成績となってしまった。

今日は一日で1300本、全部見てまわったのである。所要時間は計8時間。コスズメやマメコガネのことを考えずにブドウの来年の姿だけを考えることができればもう少し良い農作業ができたのではないかと思うと残念である。水泳しているときに今何メートル泳いだところかカウントしているとそればっかりしか考えられないように、コスズメをカウントしているとその数ばかりが頭の中で反芻されて他の賢いことが考えられない。コスズメの数を数えるのも最初は悪くないが、やや不毛である。退治したコガネムシ(主にマメコガネ;結構多勢で、ひどく葉っぱを食い荒らしている)の数を今では全く数えていないように、コスズメの数を数えるのも今日で終わりにしようか・・と思う。みつよつ、ふたつみつ、そして、いっぱい・・というぐらいの意識で軽くとらえ、主には、来年の結果母枝を如何に今充実させられるか等々の本質的なことを考えながら作業を進めることにしよう。

終わったのは19時半。明日は農作業はお休みである。

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菜園日誌 170725 コスズメ

2017年7月25日 火曜日 曇り時々晴れ

朝、自宅の庭で育てているブドウ挿し木苗の若葉を観察していたら、極小のスズメガの幼虫に気づいた。小さくても、はっきりと尾角があるので、スズメガと知られる。体長3,4mmぐらい、細くてか弱い感じである。他にもいないかと捜してみると、2匹、2匹、計5匹を見つけた。恐らくはコスズメの一齢幼虫であろう。終齢幼虫との大きさの格差は巨大である。

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ブドウの垣根を回って歩く。昨日も一巡しているので、今日まわるのは主にコスズメ退治が目標である。バッカスの5列、500本で、8匹のコスズメを見つけた。昨日まわった時には見逃していたものたちである。一昨日の日曜日から、5匹、27匹、8匹、計40匹(プラス、自宅の挿し木苗の5匹の若齢たち)を見つけている。

ちょうど主枝のトップの成長点を食べられ終えたところで捕まえた場合もあり、もう一時間早く見つけられていたなら・・と悔やまれる。

今日は午後から夕方で残りのシャルドネ、ソーヴィニヨンブランも見てまわるつもりである。

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夕方、トマトの畝の草取りと、トマトの誘引整枝、そしてトマトの収穫。草取りに思わぬ時間を取られ、夕闇迫る頃となった。

こんなに昏くなっては、コスズメなど見つけられないだろうとは思いつつも、シャルドネの列を歩いてみると、いたのである! 結局、2列(S&Nの8列と6列、計200本)を歩いて4匹、大きいのを見つけてしまった。夕焼けの美しいたそがれ時で、シャルドネの成長点にしがみついているコスズメのシルエットが、静かで、かつ・・などと考えている場合ではなさそうだ。こんなに昏くても4匹も見つかるようでは(しかも、昨日すでに歩いた列ではないか!)、いったい何匹がこの畑で夜も休まず24時間営業でブドウの葉っぱを食べていることだろう。そう思うと恐ろしくなってくるのである。予定を変更して、明日も一巡してみなければならなさそうだ。

すっかり昏くなって、携帯電話画面で時計をみたら19時46分。

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ウィキペディアによると・・・
コスズメ Theretra japonica Boisduval
翅開長:55-70mm
分布:日本全土
全身が褐色の小型のスズメガ。6-9月に見られる。幼虫は緑色乃至褐色で、ブドウ、ヤブカラシ、ツタなどを食べる。とのこと。

補註 「卵から孵化するのに数週間」とウィキペディアには書かれているので、もしそうであれば、この7月下旬の私のブドウ畑でのように猖獗を極めることが分かっていれば、もし農薬で防除するのであれば今から数週間前、たとえば7月の第一週ごろ(あるいは7月の上・中旬)までにたとえばIGR剤(Insect growth regulators;脱皮阻害剤)やBT剤(Bacillus thuringiensis;バチルス・チューリンゲンシス菌)などを使うべきだったのだろう。これらは、天敵にはほとんど影響をあたえることなく、ブドウの葉っぱを食べる蝶類の幼虫(と卵)に作用する薬剤・生物資材である。

補註 コスズメの形態に関しては、http://tpittaway.tripod.com/china/t_jap.htm にかなり詳しい記載があるが、幼虫が何齢まで脱皮を繰り返すのか、蛹になるまで標準で何日ぐらいか、などに関しては記載がない。今日、ブドウの挿し木苗で見つけた極小の一齢幼虫をブドウの葉っぱを与えて飼育してゆけば、うまくいけば、何回かの脱皮を経て蛹になるのか、観察して知ることができたのであるが・・今の農作業の忙しさ(多くが後手にまわっている)を考え合わせて、飼育して探究してみたいという気持ちを、ぐっとこらえたのであった。

補註 スズメガの成虫は超能力の持ち主で、時速50kmものスピードで飛べるし、またハチドリのようにホバリングもできる、とのこと。昨年、エビガラスズメの成虫を実体顕微鏡で見てみたが、それは華麗、ゴージャスな装飾美の貴婦人といった感があった。
 幼虫は(帆角・「ほづの」とでも名づけたいような)特徴的な尾角をピンと立てて名乗りを挙げる。逃げも隠れもしない、堂々としたものである。気立ては優しいようで、捕まえても咬んだり刺したりはしない。もちろん、毒針もない。眼を擬したような美しい模様もある。すべすべした肌を持っているので、捕まえるのに躊躇することはない。清潔そのものである。イモムシ(もとはといえばサトイモなどを食べるスズメガの幼虫のことをイモムシと呼んだらしい)の代表格である。
 このような無邪気な虫を目の敵にしてやっつけるのは、大変気の咎めることである。ヒトの農の営みでは、草食の小さな動物が「害虫」となることが多い。テントウムシ、蜘蛛、カマキリ、トンボなど、肉食の(もし大きければとても)恐ろしい動物が「益虫」とされて、農家の友である。こればっかりは、ヒトの都合によるものではあるが、変えることも避けることもできない。競合する食べ物を他者と争うことはヒトの農の宿命とも言えるかもしれない。
 私としては、1)無益なコスズメ殺生は一切行わず、しかし、2)ブドウの成長点を食べるコスズメは一匹たりとて生かさない、という方針を取りたい。1)は恐らく実行できているのだ。が、2)は前に述べたように、低い検挙率で止まっている。結局は、コスズメと私との闘争は、局所的には私が日々のバトルに(消耗戦を制して)勝ち続け、大局的に見ればコスズメ勢が種として大繁栄している(つまりコスズメの勝利に私=農家が美味しい餌を供給して貢献している)、という収支計算になっていそうである。

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ディケンズとトルストイ

2017年7月19日 水曜日 曇り

オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

George Orwell, Essays, Penguin Modern Classics, 1984, 1994, 2000

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だがここで、「単なるカリカチュア作家にすぎない」という批判が実は非難とはいえないことが、まさにわかるのだ。ディケンズがたえず脱却しようとしているのにどうしてもカリカチュア作家だと見られてしまうという事実、これこそおそらく、彼の天才をもっとも確実に証明するものではないのか。彼が作り出した怪物たちは、まずメロドラマになりかねない筋に巻きこまれても、やはり怪物として記憶に残る。さいしょの衝撃があまりにもなまなましいので、その後で何があろうと、この衝撃は消えないのだ。・・こういう人物像が、ちょうど嗅ぎ煙草入れの蓋についているくらきらした細密画のように、ぴたりと定着されたきり消えないのだ。徹底的に空想じみた、信じがたい姿だが、どういうわけか、このほうが真面目な小説家たちの努力した人物像よりよほどくっきりしていて、はるかに記憶に残るのである。・・・(中略)・・・
 だが、それでも化けものの姿を描くとなると、ひとつ不利な点がある。結局、ディケンズはいくつかのきまった気分だけにしか訴えないのだ。つまり、彼の手がけっして届かない精神の広大な領域が残ってしまう。彼の作品にはどこを見ても詩的な感情はないし、純粋な悲劇もない。性的な愛さえもほとんどその視野には入ってこない。・・・(中略)・・・
トルストイのほうがわれわれ自身についてはるかに多くのことを語ってくれるような気がするのはなぜか? ・・トルストイの登場人物たちは成長するからなのである。彼らは自己の魂の形成に悪戦苦闘する(補註:フォースターのいう「ラウンド」な登場人物たち)。ところがディケンズの人物たちは初めから出来上がった完成品なのだ。(補註:フォースターのいう「フラット」な登場人物たち)。わたしのばあいには、トルストイの人物たちよりディケンズの人物たちのほうが、はるかに頻々と、かつ生き生きと心の中に現れるけれども、その姿勢はつねに同じで変わることがなく、まるで絵か家具のようである。・・要は、ディケンズの登場人物には精神生活がないということだ。彼らは当然言わなければならないことは完全に言うものの、それ以外のことを話すとはとうてい考えられない。何かを学んだり、思索したりすることは、けっしてないのだ。ディケンズの登場人物の中でもっとも瞑想的なのは、たぶんポール・ドンビー(補註:「ドンビー父子」の主人公)だろうが、彼の思想は甘ったるい感傷にすぎない。(オーウェル、同訳書、p134-137)

補註 このオーウェルのディケンズ論(1939年)を読んだのは数年前のことである。(オーディオブックを車に載せてずっと何度も聞いていたのである。)
 以前の私は、成長してゆくトルストイの人物たちにしか価値を認められなかったものだが、このところの私はディケンズを読み進めていて、かなり楽しめるようになってきている。
 E.M.フォースターの小説論(1927年)と併せ読んでみると面白いと思う。

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ディケンズと消費者の都市ロンドン

2017年7月19日 水曜日 曇り

オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

George Orwell, Essays, Penguin Modern Classics, 1984, 1994, 2000

ディケンズが農業のことはぜんぜん書かないのに、食べ物についてはいくらでも書いているのは、単なる偶然ではない。彼はロンドンっ子で、ロンドンは、胃袋が体の中心なのと似たような意味で、世界の中心なのである。ロンドンは消費者の都市、つまり教養はきわめてゆたかだが根本的には役立たずな人間の都市なのだ。ディケンズの作品の表面を一皮剥いでみると、一九世紀の小説家としてはいささか無知な印象を受ける。物事が怒る本当の仕組みが、彼にはほとんどわかっていないのだ。一見、この説はとんでもないでたらめと思えるだろうから、多少説明しなければなるまい。(オーウェル、同訳書、p106)

ディケンズは・・庶民の行動の動機、愛情、野心、貪欲さ、復讐などを描くのに苦労はしないのである。だが労働については書かないという点がはっきり目につくのだ。(同、p107)

・・ところが、一ページ一ページの内容となると、誰もが死ぬまで覚えているのではないだろうか。ディケンズが人間を見る目はこの上なく鋭く、鮮やかである。だが、それはつねに個人として、ひとつの「性格」として人間をとらえるのであって、社会の構成員として見てはいないのだ。つまり静的に見ている、ということになる。・・・(中略)・・・ その人物たちに行動をとらせようとすると、とたんにメロドラマが始まる。当たり前の仕事を軸にして行動させることができないのである。だからこそ、まるでクロスワード・パズルのように偶然とか陰謀、殺人、変装、埋もれていた緯書、行方不明だった兄弟といったものが必要になる。(同、p109)

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彼(=ディケンズ)の道徳感覚が狂うことはぜったいにない。だが知的好奇心のほうは皆無にひとしかったのだ。ここまで話がすすんだところで、われわれはディケンズのほんとうに大きなある欠陥、いかにも一九世紀の遠さを思わせるものに、ぶつかることになるーーーすなわち、彼には仕事というものについての理想がないのである。(オーウェル、同訳書、p114)

「善良」でかつ自立しているならば、株の配当だけで五十年暮らしたところで悪いいわれはないのだ。いつでも家庭生活さえあれば充分なのである。これが結局、彼の時代の世間の通念だったのだ。「上流階級のゆたかさ」、「資産」、「独立の生計をいとなむ紳士」(あるいは「安楽な境遇の」でもいい)−−−こういう言葉そのものが、十八-十九世紀中流ブルジョワの、奇妙で空疎な夢のすべてを語っている。これは完全な怠惰という夢である。(オーウェル、同訳書、p117)

・・だが毎年子供が生まれる以外には何事も起こらない。不思議なのは、これがほんとうに幸せな光景になっていること、あるいはディケンズの手にかかるとそう見えてくることだ。彼はこういう生活を考えるだけで満足なのである。それだけでもう、ディケンズの処女作(補註:1835年前後)が出てから百年以上たっている(補註:オーウェルがこのディケンズ論をものしたのは1939年)ことは充分わかるだろう。現代の人間には、こんな目標のない生活にあれほどの活気をあたえることはとうていできまい。(同、p120-121)

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Dickens, Our Mutual Friend (3) ディケンズと階級意識

2017年7月19日 水曜日 曇り

Charles Dickens, Our Mutual Friend, Penguin Classics, 1997 (First published in two volumes 1865)

“・・・I repeat the word. This lady. What else would you call her, if the gentleman were present?” ・・・ “I say,” resumes Tremlow, “if such feelings on the part of this gentleman, induced this gentleman to marry this lady, I think he is the greater gentleman for the action, and makes her the greater lady. I beg to say, that when I use the word, gentleman, I use it in the sense in which the degree may be attained by any man. The feelings of a gentleman I hold sacred, and I confess I am not comfortable when they are made the subject of sport or general discussion.” (ibid, p796)

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オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

「たがいの友」のユージン・レイバーン(怠惰な弁護士)とリジー・ヘクサムの物語は、およそ階級的偏見(補註:小説の作者の階級的偏見・階級意識のこと;小説の舞台となっている社会のそれのことを指しているのではない)とは無縁で、きわめて写実的に描かれている。・・・(中略)・・・ リジーは迫ってくるユージンに怯えるあまりたしかに彼らの許から逃げ出しはするけれども、彼らを嫌っているようには見えない。ユージンは彼女に惹かれるが、良識のせいで誘惑には踏み切れず、自分の家のことを思うと結婚する勇気もない。結局二人は結婚するものの、これで損をするのはトゥエムロウ氏くらいのもので、それも二、三、晩餐会の約束がフイになる程度にすぎず、誰一人この結婚で不幸になるものはいない。どこをとっても、いかにも現実の生活にありそうなことばかりである。(オーウェル、同訳書、p99-100)

ところがこれが逆となると、つまり貧しい男が自分より「上の」女に野心を抱くとなると、ディケンズはとたんに中産階級的な姿勢に退いてしまう。彼は、女(平凡な女でなく立派な女である)は男より「上」だという、ヴィクトリア朝的な考えかたがわりあいに好きなのだ。ピップはエステラが自分より「上」だと思い、・・・(中略)・・・、「二都物語」のルーシー・マネットは弁護士シドニー・カートンより「上」である。この中には「上」といっても単に道徳的な意味の場合もあるが、社会的にも上のこともある。ユライア・ヒープがアグネス・ウィックフィールドとの結婚をもくろんでいると知ったときのデイヴィッド・コッパーフィールドの反応は、まぎれもなく階級意識に由来している。 (オーウェル、同書、p100)

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