倭王と倭国の実体

岡田英弘 倭国 東アジア世界の中で 中公新書 482 1977年
2018年6月29日 金曜日 曇り時々雨

倭王と倭国の実体
(越前王朝の)王家は、「日本書紀」の編纂の当時の皇室の本当の祖先である。・・この時代でさえ、日本列島は統一どころの状態ではなかった。そのことは「欽明天皇紀」の五七〇年に当たる年の条下にある、高句麗の使節の話しからわかる。・・・(中略)・・・五七〇年という絶対年代は疑わしいが、越前という王朝の発祥地でさえ、まだ倭王の統制下に入っておらず、独立の君主がいたことがわかる。これは、「隋書」からうかがわれる、七世紀初頭の倭国が畿内の範囲に限られ、筑紫以東の初刻が附庸(ふよう)している状態とよく一致する。
 そのような統一を欠いた、弱体な倭国が、どうして「広開土王碑」に記されているように、三九一年という古い時代、河内王朝の仁徳天皇が建国して間もない時期に朝鮮半島に出兵し、高句麗を相手に回して勢力を争うことができたのか。・・・(中略)・・・
 こうした意見が出てくるのには、それぞれ何らかの心理的な理由があるのだろうが、おそらくもっとも根本的な理由は、われわれが民族国家どうしの間の近代戦の観念に毒されているからだろうと思う。
・・・(中略)・・・
 ・・むしろ半島で起こった、旧楽浪郡の中国人の都市を基礎とする高句麗と、旧帯方郡に拠る百済との抗争こそが、河内王朝の成長を促した原因なのである。倭国が強力な国家になって、それから半島に進出したと考える必要はない。今も昔も、日本列島の人口は朝鮮半島の約三倍である。中国型の都市文明の発達こそ、日本列島は朝鮮半島より一歩遅れていたけれども、何かの永続的な刺激があれば、日本列島でも都市化と王権の成長が進むだけの条件は整っていた。
 百済は高句麗との対抗の必要上、倭人の兵力を必要としたのだが、その結果、倭人の軍事技術が急速に進歩して、倭人の傭兵隊が成立したであろう。
・・倭国といっても判然たる国境を持つ国家ではなく、倭王があちこちに所有する直轄地というか私領の総和が倭国なのである。っまり倭王というものが先にあって、その支配下にある土地と人民が倭国なのである。(岡田、同書、p192-193、194-195)
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