2021年11月22日 月曜日 午後から雨。夜になって非常に強い雨。
神野正史 「世界史」で読み解けば「日本史」がわかる 祥伝社
陰湿な侵略の手口
① まず、目をつけた地に「軍」ではなく「宣教師」を派遣する。
② 頃合いを見計らって、宣教師が商人をつれてくる。(補註#)
③ 最後に軍事制圧。 こうして現地の人々との軋轢が高まり、商売がやりにくくなってきたとき、彼らは初めてその本性を現し、近代軍を以てこれを一気に滅ぼしにかかります。 そのやり口は、①毒矢を打ち込み、②毒を全身に回らせ弱らせてから、③確実に仕留める、という「狩り」そのもの。(神野、同書、p125)
自らの手は汚さない
しかも、彼らが直接軍事力を行使するのはほんとうに”最後の手段”であって、極力自分の手を汚そうとはしません。
ーー夷を以て夷を制すーー
「夷(AA圏)」を制するために彼らが最大限に利用した「夷」が、宣教師の努力によりすでに根づいてきていた現地の信者たち(ライスクリスチャン)たちでした。
キリスト教を盲信している彼らを自分たちの手先として使い、同じ民族同士で殺し合わせ、国力を削いでいきます。(神野、同書、p125-126)
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補註# 同じ人物が、最初は宣教師としてやってきて、ついで商人に転職し、などという場合もあった。
補註 コンゴの王様がポルトガル人達の悪行をローマ法王に訴えたことがあったが、甲斐はなかった。
ウィキペディアによると・・・<以下引用>
同時代中からポルトガル商人による奴隷貿易が始まり、王国を蝕んでいった。アフォンソ1世は奴隷貿易の進行がコンゴを荒廃させていたことに鑑み、ポルトガル王ジョアン3世に奴隷貿易の停止を求める書簡を送ったが、ジョアン3世はポルトガルの国益のためにこの書簡を無視し、その後コンゴ王国はアフリカにおける奴隷貿易の中心地となった。1545年にアフォンソ1世が没すると、コンゴでは反乱が相次ぎ、奴隷貿易とキリスト教の布教、そしてポルトガルの侵攻によってコンゴ王国は徐々に力を失っていった。1568年にジャガと呼ばれる武装部族集団がコンゴ王国に侵入し、コンゴ王アルヴァロ1世が事態の収拾のためにポルトガル軍の派遣を要請したため、ポルトガル軍の実力によって独立を回復したコンゴ王はポルトガルへの帰順を誓わされ、以後コンゴ王国はポルトガルの属国となった。
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アフォンソ1世 https://ja.wikipedia.org/wiki/アフォンソ1世_(コンゴ王)ポルトガル王室から奴隷貿易の規制が行われないことを憂慮したアフォンソは、ローマ教皇パウルス3世にも助けを求めた。1529年と1539年の2度にわたりローマに使節を送ったが、無駄骨に終わる。1535年には教皇からコンゴへの援助と指示を約束する返答を受け取ったが、教皇の手紙はやはり効力を持たなかった。
アフォンソの在位中にコンゴにおけるポルトガルの宣教・教育活動は衰退し、宣教師の数は10人を超えることは無く、全員が王宮に居住していた。アフォンソはポルトガル人が及ぼす悪影響に耐えかね、宣教師と教師を除く全てのヨーロッパ人の追放を命じる。しかし、この命令を撤回せざるを得なくなり、外国人が行う商取引を監察する委員会を設置することで妥協した。<以上、ウィキペディアより引用終わり>
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それから400年以上もの後、コンゴ共和国の初代の首相となったルムンバは、ベルギーとCIAによって殺害され(1961年1月17日)、硫酸で融かされた。それから60年後の今年(2021年)、僅かに残ったルムンバの歯が返還されたとのこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/パトリス・ルムンバ
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補註 また、南アメリカでのキリスト教の布教に関しては、「アギーレ/神の怒り」というドイツ映画(西ドイツ1972年)で描かれていて、このホームページでも紹介したことがありました。私は岩波ホールで見たのだと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/アギーレ/神の怒り
補註 アギーレ/神の怒り、題名のドイツ語と英語はそれぞれ Aguirre, der Zorn Gottes、Aguirre, the Wrath of God となっている。なので、神は単数形、大文字で始まるので、キリスト教の神ヤーヴェ。
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