読書ノート

毎月二十三日、祖父の命日には七人の子供たちの家族が集まり楽しいひとときを過ごすのが習わしだった。

2022年12月30日 金曜日 晴れ

東條由布子 祖父東條英機「一切語るなかれ」増補改訂版 文春文庫 2000年(単行本は1992年読売新聞社刊、文庫初版は1995年文藝春秋社刊)

 (著者の祖母かつ子・昭和57年91歳は・・)  それまで床にふすこともなく普段のように過ごしていた。亡くなる六日前の五月二十三日には、いつものようにみんなが祖母の家に集まり賑やかな先祖供養を行った。毎月、祖父の命日には七人の子供たちの家族が集まり楽しいひとときを過ごすのが習わしだった。帰りぎわには必ず祖母はみんなに声を掛ける。  「貴女の家は何人だったかね?」 ・・(祖母は)七つのお土産の包みを作る。祖母の暖かい真心が詰まった包みを頂いてみんな家路を急ぐ。その日も祖母は普段と変わらずニコニコとみんなの話に耳を傾けていたが、・・・以下略・・・(東條由布子、同書、p196)

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 東條閣下御許に  勝子

・・勿論お覚悟の通りでしたが、外のお方様が案外重いので、お昼のお言葉を思い出し、それの方が御不満かと思いましたが、別に三人とも泣いたりは致しませんで、堪えておりました。あなた様の御様子をかげながらお偲びしては意気地なく泣いては居られませぬ。(昭和二十三年十一月十二日、極東国際軍事裁判の判決が下りた日に祖母かつ子から祖父英機への別れの手紙より、東條由布子、同書、p132)

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 ・・公判を前にして祖父から来た手紙には「この公判が自分(=著者の祖父・英機)の罪の軽重大小に関係ありなど夢思うな」と書かれていた。国の正義のために自分の全精力を傾けている夫に、自分のすべてをささげ尽くそうと決心した祖母は二十一年十一月、・・一年二ヵ月ぶりに東京の我が家(=東京都世田谷区用賀)に戻ってきた。日本女子大の学生だった頃、恩師の成瀬仁蔵先生から女の生きる道として「愛と奉仕の一生」を教えられた(補註:成瀬師の実践倫理『Love and Serve』については同書のp200も参照下さい)。祖母はその精神を自分の生きるテーマとし生涯それを忠実に実践した。祖父の近くに帰れて安心した祖母は四人の孫と温かい温泉が待つ伊東にやって来た。・・楽しかった思い出を祖母は巣鴨拘置所で祖父に語った。(東條由布子、同書、p115-116)

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 ・・祖父は遺書の中で「魂は公的には国家と共に、私的には御身(=妻かつ子)と子供の上にあった守るべし」と言っているが、こうした(祖父の)祖母への熱い思いがあったからこそ、祖父亡きあとの辛い戦後を(補註者補い:祖母そして私たち家族は)何とか生き抜いてこられたのかも知れない。(同書、p202)

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・・祖母は雑司ヶ谷墓地の御参りには、よく母と行った。墓前に供える花はいつも庭に咲いた花々だった。二人はお喋りをしながら、まわりの生け垣を植木屋さんのようにチョキチョキと刈り込んでいた。(同書、p206)

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