2016年7月22日 金曜日
粟津則雄 ことばと精神 粟津則雄講演集 未来社 2009年
高村光太郎 自分のなかの両極に触れながら生き続ける
パリに対する彼の感嘆は、いかにも率直で、全身的なものです。・・だけどこれは、当時はもちろん、現在でも時としてみられるような、その賛嘆によって自分もパリ人のひとりになったような錯覚にとらえられるということではないのですよ。先ほどの「根付の国」でもわかるように、彼は、自分のなかの日本人を、ある苦痛とともにはっきりと見定めていた。ただそれによって、あいまいで中途半端な劣等感にとらえられることもないんです。つまり、光太郎は、彼のなかのパリと日本との激しく緊張した共存そのものを生きたと言っていいだろうと思う。 だけど、こんなふうに、自分のなかの両極に触れながら生き続けるのは、なんとも厄介なことです。ひとつまちがえばその均衡が崩れかねない。光太郎の場合、それは、アメリカとの戦争でした。戦後、光太郎は、みずからの生涯を振り返って書いた、「暗愚小伝」のなかに「真珠湾の日」という詩があります。・・・(中略)・・・ 身をすてるほか今はない。 陛下をまもらう。 詩をすてて詩を書かう。 記録を書かう。 同胞の荒廃を出来れば防がう。 私はその夜木星の大きく光る駒込台で ただしんけんにさう思ひつめた。 こういう詩を、戦後、彼は深い悔恨とともに書いたのです。・・・(中略)・・・ 戦争はこの均衡を突き崩したのですね。彼の意志を乗り越えて、「日本」が前面に立ち現れたのでしょう。だけど、この詩をつらぬく、まさしく愚直としか言いようのない、まっすぐで深い心の動きには、心を打たれざるをえないのです。 (粟津、同書、p70-73)
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