culture & history

岑参と杜甫: 報道の詩

2016年12月1日 木曜日 雨

鈴木修次 唐詩 その伝達の場 NHKブックス267 1976年

詩が、狭い貴族サロンの社交の具としてもっぱら活用されていた六朝時代とはちがって、唐代は知識人階層が地方の中小地主階層出身者にまでひろがり、それだけに情報伝達の範囲も拡大してきた。そのために、いきおいより多くの人に知ってもらおう、わかってもらおうと志す詩人は、情緒伝達の有効な道具としての詩の意義や性格について、考えなおす必要にせまられた。そうして新たにくふうされた「新詩」が、詩的文芸の新しい方向として、詩人たちに注視されるようになった。そうした風潮が必然の傾向としてあらわれるようになったのは、六朝詩的マンネリズムから抜け出すことに詩人たちがたくましい意欲を示し出した盛唐になってからであり、そのくふうのひとつのきっかけを開拓したのは、岑参(しんじん)という詩人であった。(鈴木修次、同書「報道の詩」、p174)

岑参の歌行体送別詩の特色は、都に帰ってゆく僚友に、自作の西域風物詩に送別の辞をつけて贈り、僚友による都での紹介を期待したところにある。都の人々に聞いてもらいたいのは、詩による報道文学である異国の風情をうたう部分であった。送別のことばは、いわばつけたりであるにすぎない。(鈴木修次、同書、p200)

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補註 2016年4月20日の記事で、「来たるも亦た一布衣(ふい)去るも亦た一布衣」の項に岑参の詩を紹介している。

補註 また同じく4月10日の記事に、「后人又把高适、岑参、王昌龄、王之涣合称“边塞四诗人”」という解説を引用している。(簡体字で書かれていても、知っている詩人の名前だと読めてしまうのが愉快である。ただ高適の適の字の簡体字「适」は少し辛いが・・。)

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岑参:岑生 新詩多し(杜甫「九日岑参に寄す」)
その新しさとは何であったか。岑参は西域にあって、西域の風物を紹介する異国のうたをいろいろと都に伝えてきたが、それが杜甫にとっては「新詩」というにふさわしい新鮮さを感じさせたのではなかったか。西域における岑参の詩は、報道文学としての詩の可能性をきりひらいたのであった。その特異性を杜甫は敏感に感じとったのではないかと思う。そして杜甫は、杜甫みずからの発想にたつ報道的社会詩を、いろいろと作ってゆくのであった。(鈴木修次、同書、p199)

杜甫 陳陶を悲しむ・青坂を悲しむ
・・・陳陶や青坂の敗戦という悲しいニュースは、(杜甫は)捕虜収容所で聞いたのであった。杜甫はさっそくそのニュースを詩にしたてて、収容所の仲間たちに伝達したものであったろう。
 詩が、報道文学に利用できるという智恵は、杜甫の場合、岑参の西域における報道の詩からヒントを得たのではないか、とわたくしは考えている。この詩をうたった翌年の春、杜甫は有名な「春望」を作るとともに、春のある日、収容所を抜け出して曲江のほとりを遊び、昔日の栄華が一朝にして今日の廃墟と化したありさまをなげき、七言二〇句からなる傑作「哀江頭」をうたった。この「哀江頭」もまた、すぐれた報道の文学である。(鈴木修次、同所、p212)

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