2018年4月14日 土曜日 くもり
鐸木さんの180410付けの日記より <以下引用> http://nikko.us/18/051.html
なるべく喧嘩せず、対立構図を作らず、したたかに相手(国や県や大企業)を取り込み、結果として今よりいい方向に向かう知恵と対人関係形成能力が政治家には不可欠。清濁併せ呑み、ゲームに勝つずるがしこさも必要なのだ。
いくら正論を述べていても、自己主張で終わるような人、いざ仕事をさせてみたら現実に対応できないような人(つまり僕のような人?)は政治家には向いてない。政治に直接参加しようとせず、何かやるにしても外野からのサポートや自分の持ち場をしっかり固めることに徹したほうがいい。(鐸木能光さんの日記より引用)
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「斉」は一斉、斉唱などの斉で、旧字体が齊。「斎」は書斎、斎場などの斎で、旧字体が齋。意味の違うまったく別の字
http://ch.nicovideo.jp/ky2g/blomaga/ar162518 のサイトより<以下引用>
斎藤という苗字だが、これは平安時代中期の武将・藤原利仁の子、藤原叙用が斎宮頭となったことから「斎」宮頭の「藤」原ということで斎藤を称したのが始まり。斎宮頭とは伊勢神宮に奉仕する未婚の皇女・斎王をお世話する役所・斎宮寮のトップのこと。
「斎(齋)」という字には物忌みとか、いつく(神を祀る、神に奉仕する)と言う意味がある。
「斉(齊)」と言う字は本来、揃っているとか整っているという意味。
江戸時代から「斉」が「斎(齋)」の略字として用いられている。
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補註 今まで斎と斉の使い分けや読み方などについて曖昧だったが、頭の中が整理できた。
さて、太公望(呂尚、在位? – 紀元前1000年)の斉(姜斉;春秋戦国時代)は当然ながら斉(齊、せい)と書いてセイと読むのである。
ウィキペディアによると・・・
斉(齊、せい、Qí、紀元前1046年 – 紀元前386年)は、周代、春秋時代、戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した国(諸侯)。周建国の功臣太公望によって立てられた国である。姓は姜、氏は呂であるため、戦国時代の斉(嬀斉・田斉)などと区別して姜斉または呂斉とも呼ばれる。紀元前386年に有力大夫の田和によって乗っ取られ、姜斉はこの時点で滅ぼされた。首都は臨淄。
ついでに、ウィキペディアによると・・・
田斉(でんせい)は、中国の戦国時代、紀元前386年に田氏が姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして新たに立てた国。国号は単に斉であるが、西周・春秋時代の呂斉と特に区別する場合に嬀斉または田斉と呼ばれる。戦国時代中期には、湣王の頃に東帝を称するまでになるほど強盛を誇り、戦国七雄の一つにも数えられる。首都は呂斉の時と変わらず臨淄であった。
<以上、ウィキペディアより引用終わり>
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