2018年4月14日 土曜日 曇り
「史記」より<以下引用>
・・范蠡浮海出齊,變姓名,自謂鴟夷子皮,耕于海畔,苦身戮力,父子治產。
・・於是自謂陶朱公。復約要父子耕畜,廢居,候時轉物,逐什一之利。
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范蠡浮海出齊,變姓名,自謂鴟夷子皮,耕于海畔,苦身戮力,父子治產。居無幾何,致產數十萬。齊人聞其賢,以為相。范蠡喟然嘆曰:「居家則致千金,居官則至卿相,此布衣之極也。久受尊名,不祥。」乃歸相印,盡散其財,以分與知友鄉黨,而懷其重寶,閒行以去,止于陶,以為此天下之中,交易有無之路通,為生可以致富矣。於是自謂陶朱公。復約要父子耕畜,廢居,候時轉物,逐什一之利。居無何,則致貲累巨萬。天下稱陶朱公。
朱公居陶,生少子。・・・以下略・・・
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補註 鴟夷子皮(しいしひ)について:
白川静さんが詳しい解説を書かれていた。「孔子伝」だったかと思うが、今、正確には思い出せない。
伍子胥と鴟夷子皮: 鴟夷子皮(しいしひ、鴟夷とは罪人を包む皮袋である。 伍子胥が自害した後、これに包まれて川に捨てられたという)。
范蠡と鴟夷子皮: 范蠡浮海出齊,變姓名,自謂鴟夷子皮。
孔子と鴟夷子皮: 孔子が斎を去る際にも、田常の邸に、鴟夷を立てて去った。
夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江《十八史略》
乃取子胥尸、盛以鴟夷、浮之江中《史記;伍子胥列傳》
鴟夷は、動物の皮を剥いで作った袋です。人一人を入れることのできる大きさの袋は、良く伸びるので馬がつかわれたといいます。<鴟夷について>白川静氏は、神事で負けた方の神羊を入れて、川に流したと書いています。孔子が斎を去る際にも、田常の邸に、鴟夷を立てて去ったと書かれており、何か凶事を払う呪術的な作用が期待されていたようです。伍子胥が祟りを為さないようにという意味が込められているようです。また豚の革袋に空気を入れいかだ代わりにしたものが現在でも中国の地方で使われています。
子胥の不吉な遺言を成り立たせないためです。さらに、 怨霊に祟られないために、凶を払う必要がありました。皮袋(鴟夷)にいれて流すのは、 土に埋めて魂魄に祟られることを避けた為といわれます。神前裁判で、凶とされた方は使った羊を皮袋にいれて、凶事を流すと、白川静氏が述べていますが、これと似た考えでしょう。 後日、越の名将范蠡(はんれい)は斉に亡命した時に鴟夷子皮(しいしひ)と名乗りました。これも過去の自分を河に流して決別したという意味だそうです。
補註 范蠡 ウィキペディアによると・・・
補註 范蠡(つづき)
引退[編集]
悲願が達成されて有頂天になる勾践を見て、范蠡は密かに越を脱出した。范蠡は文種への手紙の中で「私は『狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵(かく)る』(狡賢い兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓は仕舞われてしまう)と聞いています。越王の容貌は長頸烏喙(首が長くて口がくちばしのようにとがっている)です。こういう人相の人は苦難を共にできても、歓楽はともにできないのです。どうして貴方は越から逃げ出さないのですか」と述べた。
そこで文種は災いを避けるため病と称して出仕しなくなったが、文種に謀反の疑いありと讒言する者が現われた。勾践は文種に剣を贈り、「先生は私に呉を倒す7つの秘策があると教えて下さいました。私はそのうちの3つを使って呉を滅ぼしました。残り4つは先生のところにあります。私のために先生は亡くなった父王のもとでその秘策をお試し下さい」と伝え、文種は自殺した。
伝説[編集]
范蠡は夫差の軍に一旦敗れた時に、夫差を堕落させるために絶世の美女施夷光(西施(せいし))を密かに送り込んでいた。思惑通り夫差は施夷光に溺れて傲慢になった。夫差を滅ぼした後、范蠡は施夷光を伴って斉へ逃げた。
越を脱出した范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(山東省陶県)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった(陶朱の富の故事)。このことについては、史記の「貨殖列伝」に描かれている。
評価[編集]
范蠡の見事な活躍と出処進退は後世の憧れとなり、好敵手の伍子胥と共に長く語り継がれている。
范蠡は日本でも名臣として有名である。『太平記』巻第4「呉越闘事」(西源院本の事書)には、後醍醐天皇の臣児島高徳が「天勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」という句を贈ったという話がある。後醍醐天皇を勾践にたとえ、名臣が出現しないわけではないのだから諦めないようにと励ましたのである。この逸話は「児島高徳」という文部省唱歌に詠み込まれ歌われた。
<以上、ウィキペディアより引用終わり>
補註 范蠡と西施のお話(伝説)は、「史記」には描かれていない。陳舜臣さんの小説十八史略に面白く描かれていてハッと驚いたものである。史実からはほど遠いかもしれないが、ロマンとしては最高級のシナリオだと思う。以前の私のウェブページでも紹介したことがある(伍子胥と范蠡)。ウィキペディアにも載っていることを今日初めて知って驚いた。今まで陳舜臣さんのオリジナル・プロットだと思っていたからだ。この伝説がどこまで遡れるのか、宿題としたい。
補註 「天勾践を空しゅうする莫れ 時に范蠡無きにしも非ず」: 児島高徳の桜の木・・美作の院庄(いんのしょう)でのお話である。この地は現在の津山市。津山(つやま)の名前の由来は森忠政公が鶴山(つるやま・かくざん)に築城した紀元1600年代に源を持つ地名である。
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補註 「史記」の巻041としてこの巻の全文を一望に見ることができる。司馬遷が竹簡に書いていった頃から2000年余・・今は技術的には大変便利な世になったものである。: (ウィキソースより<以下引用>)
史記/卷041
『史記』は西漢の司馬遷による編纂された歴史書である。中国の上古の黄帝時代から漢武帝元狩元年まで、およそ3000年の歴史を記載した。
越王句踐,其先禹之苗裔,而夏后帝少康之庶子也。封於會稽,以奉守禹之祀。文身斷發,披草萊而邑焉。後二十餘世,至於允常。允常之時,與吳王闔廬戰而相怨伐。允常卒,子句踐立,是為越王。
元年,吳王闔廬聞允常死,乃興師伐越。越王句踐使死士挑戰,三行,至吳陳,呼而自剄。吳師觀之,越因襲擊吳師,吳師敗於檇李,射傷吳王闔廬。闔廬且死,告其子夫差曰:「必毋忘越。」
三年,句踐聞吳王夫差日夜勒兵,且以報越,越欲先吳未發往伐之。范蠡諫曰:「不可。臣聞兵者凶器也,戰者逆德也,爭者事之末也。陰謀逆德,好用凶器,試身於所末,上帝禁之,行者不利。」越王曰:「吾已決之矣。」遂興師。吳王聞之,悉發精兵擊越,敗之夫椒。越王乃以餘兵五千人保棲於會稽。吳王追而圍之。
越王謂范蠡曰:「以不聽子故至於此,為之柰何?」蠡對曰:「持滿者與天,定傾者與人,節事者以地。卑辭厚禮以遺之,不許,而身與之市。」句踐曰:「諾。」乃令大夫種行成於吳,膝行頓首曰:「君王亡臣句踐使陪臣種敢告下執事:句踐請為臣,妻為妾。」吳王將許之。子胥言於吳王曰:「天以越賜吳,勿許也。」種還,以報句踐。句踐欲殺妻子,燔寶器,觸戰以死。種止句踐曰:「夫吳太宰嚭貪,可誘以利,請閒行言之。」於是句踐以美女寶器令種閒獻吳太宰嚭。嚭受,乃見大夫種於吳王。種頓首言曰:「願大王赦句踐之罪,盡入其寶器。不幸不赦,句踐將盡殺其妻子,燔其寶器,悉五千人觸戰,必有當也。」嚭因說吳王曰:「越以服為臣,若將赦之,此國之利也。」吳王將許之。子胥進諫曰:「今不滅越,後必悔之。句踐賢君,種、蠡良臣,若反國,將為亂。」吳王弗聽,卒赦越,罷兵而歸。
句踐之困會稽也,喟然嘆曰:「吾終於此乎?」種曰:「湯系夏臺,文王囚羑里,晉重耳奔翟,齊小白奔莒,其卒王霸。由是觀之,何遽不為福乎?」
吳既赦越,越王句踐反國,乃苦身焦思,置膽於坐,坐臥即仰膽,飲食亦嘗膽也。曰:「女忘會稽之恥邪?」身自耕作,夫人自織,食不加肉,衣不重采,折節下賢人,厚遇賓客,振貧弔死,與百姓同其勞。欲使范蠡治國政,蠡對曰:「兵甲之事,種不如蠡;填撫國家,親附百姓,蠡不如種。」於是舉國政屬大夫種,而使范蠡與大夫柘稽行成,為質於吳。二歲而吳歸蠡。
句踐自會稽歸七年,拊循其士民,欲用以報吳。大夫逢同諫曰:「國新流亡,今乃復殷給,繕飾備利,吳必懼,懼則難必至。且鷙鳥之擊也,必匿其形。今夫吳兵加齊、晉,怨深於楚、越,名高天下,實害周室,德少而功多,必淫自矜。為越計,莫若結齊,親楚,附晉,以厚吳。吳之志廣,必輕戰。是我連其權,三國伐之,越承其弊,可克也。」句踐曰:「善。」
居二年,吳王將伐齊。子胥諫曰:「未可。臣聞句踐食不重味,與百姓同苦樂。此人不死,必為國患。吳有越,腹心之疾,齊與吳,疥癬也。願王釋齊先越。」吳王弗聽,遂伐齊,敗之艾陵,虜齊高、國以歸。讓子胥。子胥曰:「王毋喜!」王怒,子胥欲自殺,王聞而止之。越大夫種曰:「臣觀吳王政驕矣,請試嘗之貸粟,以卜其事。」請貸,吳王欲與,子胥諫勿與,王遂與之,越乃私喜。子胥言曰:「王不聽諫,後三年吳其墟乎!」太宰嚭聞之,乃數與子胥爭越議,因讒子胥曰:「伍員貌忠而實忍人,其父兄不顧,安能顧王?王前欲伐齊,員彊諫,已而有功,用是反怨王。王不備伍員,員必為亂。」與逢同共謀,讒之王。王始不從,乃使子胥於齊,聞其讬子於鮑氏,王乃大怒,曰:「伍員果欺寡人!」役反,使人賜子胥屬鏤劍以自殺。子胥大笑曰:「我令而父霸,我又立若,若初欲分吳國半予我,我不受,已,今若反以讒誅我。嗟乎,嗟乎,一人固不能獨立!」報使者曰:「必取吾眼置吳東門,以觀越兵入也!」於是吳任嚭政。
居三年,句踐召范蠡曰:「吳已殺子胥,導諛者眾,可乎?」對曰:「未可。」
至明年春,吳王北會諸侯於黃池,吳國精兵從王,惟獨老弱與太子留守。句踐復問范蠡,蠡曰「可矣」。乃發習流二千人,教士四萬人,君子六千人,諸御千人,伐吳。吳師敗,遂殺吳太子。吳告急於王,王方會諸侯於黃池,懼天下聞之,乃祕之。吳王已盟黃池,乃使人厚禮以請成越。越自度亦未能滅吳,乃與吳平。
其後四年,越復伐吳。吳士民罷弊,輕銳盡死於齊、晉。而越大破吳,因而留圍之三年,吳師敗,越遂復棲吳王於姑蘇之山。吳王使公孫雄肉袒膝行而前,請成越王曰:「孤臣夫差敢布腹心,異日嘗得罪於會稽,夫差不敢逆命,得與君王成以歸。今君王舉玉趾而誅孤臣,孤臣惟命是聽,意者亦欲如會稽之赦孤臣之罪乎?」句踐不忍,欲許之。范蠡曰:「會稽之事,天以越賜吳,吳不取。今天以吳賜越,越其可逆天乎?且夫君王蚤朝晏罷,非為吳邪?謀之二十二年,一旦而棄之,可乎?且夫天與弗取,反受其咎。『伐柯者其則不遠』,君忘會稽之蚯?」句踐曰:「吾欲聽子言,吾不忍其使者。」范蠡乃鼓進兵,曰:「王已屬政於執事,使者去,不者且得罪。」吳使者泣而去。句踐憐之,乃使人謂吳王曰:「吾置王甬東,君百家。」吳王謝曰:「吾老矣,不能事君王!」遂自殺。乃蔽其面,曰:「吾無面以見子胥也!」越王乃葬吳王而誅太宰嚭。
句踐已平吳,乃以兵北渡淮,與齊、晉諸侯會於徐州,致貢於周。周元王使人賜句踐胙,命為伯。句踐已去,渡淮南,以淮上地與楚,歸吳所侵宋地於宋,與魯泗東方百里。當是時,越兵橫行於江、淮東,諸侯畢賀,號稱霸王。
范蠡遂去,自齊遺大夫種書曰:「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。越王為人長頸鳥喙,可與共患難,不可與共樂。子何不去?」種見書,稱病不朝。人或讒種且作亂,越王乃賜種劍曰:「子教寡人伐吳七術,寡人用其三而敗吳,其四在子,子為我從先王試之。」種遂自殺。
句踐卒,子王鼫與立。王鼫與卒,子王不壽立。王不壽卒,子王翁立。王翁卒,子王翳立。王翳卒,子王之侯立。王之侯卒,子王無彊立。
王無彊時,越興師北伐齊,西伐楚,與中國爭彊。當楚威王之時,越北伐齊,齊威王使人說越王曰:「越不伐楚,大不王,小不伯。圖越之所為不伐楚者,為不得晉也。韓、魏固不攻楚。韓之攻楚,覆其軍,殺其將,則葉、陽翟危;魏亦覆其軍,殺其將,則陳、上蔡不安。故二晉之事越也,不至於覆軍殺將,馬汗之力不效。所重於得晉者何也?」越王曰:「所求於晉者,不至頓刃接兵,而況于攻城圍邑乎?願魏以聚大梁之下,願齊之試兵南陽莒地,以聚常、郯之境,則方城之外不南,淮、泗之閒不東,商、於、析、酈、宗胡之地,夏路以左,不足以備秦,江南、泗上不足以待越矣。則齊、秦、韓、魏得志於楚也,是二晉不戰分地,不耕而穫之。不此之為,而頓刃於河山之閒以為齊秦用,所待者如此其失計,柰何其以此王也!」齊使者曰:「幸也越之不亡也!吾不貴其用智之如目,見豪毛而不見其睫也。今王知晉之失計,而不自知越之過,是目論也。王所待於晉者,非有馬汗之力也,又非可與合軍連和也,將待之以分楚眾也。今楚眾已分,何待於晉?」越王曰:「柰何?」曰:「楚三大夫張九軍,北圍曲沃、於中,以至無假之關者三千七百里,景翠之軍北聚魯、齊、南陽,分有大此者乎?且王之所求者,鬬晉楚也;晉楚不鬬,越兵不起,是知二五而不知十也。此時不攻楚,臣以是知越大不王,小不伯。復讎、龐、長沙,楚之粟也;竟澤陵,楚之材也。越窺兵通無假之關,此四邑者不上貢事於郢矣。臣聞之,圖王不王,其敝可以伯。然而不伯者,王道失也。故願大王之轉攻楚也。」
於是越遂釋齊而伐楚。楚威王興兵而伐之,大敗越,殺王無彊,盡取笔吳地至浙江,北破齊於徐州。而越以此散,諸族子爭立,或為王,或為君,濱於江南海上,服朝於楚。
後七世,至閩君搖,佐諸侯平秦。漢高帝復以搖為越王,以奉越後。東越,閩君,皆其後也。
范蠡事越王句踐,既苦身力,與句踐深謀二十餘年,竟滅吳,報會稽之恥,北渡兵於淮以臨齊、晉,號令中國,以尊周室,句踐以霸,而范蠡稱上將軍。還反國,范蠡以為大名之下,難以久居,且句踐為人可與同患,難與處安,為書辭句踐曰:「臣聞主憂臣勞,主辱臣死。昔者君王辱於會稽,所以不死,為此事也。今既以雪恥,臣請從會稽之誅。」句踐曰:「孤將與子分國而有之。不然,將加誅于子。」范蠡曰:「君行令,臣行意。」乃裝其輕寶珠玉,自與其私徒屬乘舟浮海以行,終不反。於是句踐表會稽山以為范蠡奉邑。
范蠡浮海出齊,變姓名,自謂鴟夷子皮,耕于海畔,苦身戮力,父子治產。居無幾何,致產數十萬。齊人聞其賢,以為相。范蠡喟然嘆曰:「居家則致千金,居官則至卿相,此布衣之極也。久受尊名,不祥。」乃歸相印,盡散其財,以分與知友鄉黨,而懷其重寶,閒行以去,止于陶,以為此天下之中,交易有無之路通,為生可以致富矣。於是自謂陶朱公。復約要父子耕畜,廢居,候時轉物,逐什一之利。居無何,則致貲累巨萬。天下稱陶朱公。
朱公居陶,生少子。少子及壯,而朱公中男殺人,囚於楚。朱公曰:「殺人而死,職也。然吾聞千金之子不死於市。」告其少子往視之。乃裝黃金千溢,置褐器中,載以一牛車。且遣其少子,朱公長男固請欲行,朱公不聽。長男曰:「家有長子曰家督,今弟有罪,大人不遣,乃遺少弟,是吾不肖。」欲自殺。其母為言曰:「今遣少子,未必能生中子也,而先空亡長男,柰何?」朱公不得已而遣長子,為一封書遺故所善莊生。曰:「至則進千金于莊生所,聽其所為,慎無與爭事。」長男既行,亦自私齎數百金。
至楚,莊生家負郭,披藜藋到門,居甚貧。然長男發書進千金,如其父言。莊生曰:「可疾去矣,慎毋留!即弟出,勿問所以然。」長男既去,不過莊生而私留,以其私齎獻遺楚國貴人用事者。
莊生雖居窮閻,然以廉直聞於國,自楚王以下皆師尊之。及朱公進金,非有意受也,欲以成事後復歸之以為信耳。故金至,謂其婦曰:「此朱公之金。有如病不宿誡,後復歸,勿動。」而朱公長男不知其意,以為殊無短長也。
莊生閒時入見楚王,言「某星宿某,此則害於楚」。楚王素信莊生,曰:「今為柰何?」莊生曰:「獨以德為可以除之。」楚王曰:「生休矣,寡人將行之。」王乃使使者封三錢之府。楚貴人驚告朱公長男曰:「王且赦。」曰:「何以也?」曰:「每王且赦,常封三錢之府。昨暮王使使封之。」朱公長男以為赦,弟固當出也,重千金虛棄莊生,無所為也,乃復見莊生。莊生驚曰:「若不去邪?」長男曰:「固未也。初為事弟,弟今議自赦,故辭生去。」莊生知其意欲復得其金,曰:「若自入室取金。」長男即自入室取金持去,獨自歡幸。
莊生羞為兒子所賣,乃入見楚王曰:「臣前言某星事,王言欲以修德報之。今臣出,道路皆言陶之富人朱公之子殺人囚楚,其家多持金錢賂王左右,故王非能恤楚國而赦,乃以朱公子故也。」楚王大怒曰:「寡人雖不德耳,柰何以朱公之子故而施惠乎!」令論殺朱公子,明日遂下赦令。朱公長男竟持其弟喪歸。
至,其母及邑人盡哀之,唯朱公獨笑,曰:「吾固知必殺其弟也!彼非不愛其弟,顧有所不能忍者也。是少與我俱,見苦,為生難,故重棄財。至如少弟者,生而見我富,乘堅驅良逐狡兔,豈知財所從來,故輕棄之,非所惜吝。前日吾所為欲遣少子,固為其能棄財故也。而長者不能,故卒以殺其弟,事之理也,無足悲者。吾日夜固以望其喪之來也。」
故范蠡三徙,成名於天下,非茍去而已,所止必成名。卒老死于陶,故世傳曰陶朱公。
太史公曰:禹之功大矣,漸九川,定九州,至于今諸夏艾安。及苗裔句踐,苦身焦思,終滅彊吳,北觀兵中國,以尊周室,號稱霸王。句踐可不謂賢哉!蓋有禹之遺烈焉。范蠡三遷皆有榮名,名垂後世。臣主若此,欲毋顯得乎!
﹝索隱述贊﹞越祖少康,至於允常。其子始霸,與吳爭彊。槜李之役,闔閭見傷。會稽之恥,勾踐欲當。種誘以利,蠡悉其良。折節下士,致膽思嘗。卒複讎寇,遂殄大邦。後不量力,滅於無彊。
<以上、ウィキソースより引用終わり>
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