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わがこころなぐさめかねつ・・。

2021年3月12日 金曜日 快晴・雪解け進む

太宰治 姨捨 ちくま文庫版太宰治全集2 1988年

・・「いくらのこってんだい?」そんなことを聞きながら、嘉七は、つくづく、恥ずかしかった。

みれん。これは、いやらしいことだ。世の中で、いちばんだらしないことだ。こいつはいけない。・・・(中略)・・・ 生きて、ふたたび、この女と暮らして行く気はないのか。借銭、それも、義理のわるい借銭、これをどうする。汚名、半気ちがいとしての汚名、これをどうする。病苦、人がそれを信じて呉れない皮肉な病苦、これをどうする。そうして、肉親。・・・(中略)・・・ 「もういいわよ。たくさんよ。」(かず枝は)雑誌をほうりだして、「理くつばかり言ってるのね。だから、きらわれるのよ。」  「ああ、そうか。おまえは、おれを、きらいだったのだね。しつれいしたよ。」嘉七は、酔漢みたいな口調で言った。  「なぜ、おれは嫉妬しないのだろう。やはり、おれは、自惚れやなのであろうか。おれをきらう筈がない。それを信じているのだろうか。怒りさえない。・・おれのこんな、ものの感じかたをこそ、倨傲というのではなかろうか。そんなら、おれの考えかたは、みなだめだ。おれの、これまでの生きかたは、みなだめだ。むりもないことだ、なぞと理解せず、なぜ単純に憎むことができないのか。そんな嫉妬こそ、つつましく、美しいじゃないか(補註#)。 重ねて四つ(補註##)、という憤怒こそ、高く素直なものではないか。細君にそむかれて、その打撃のためにのみ死んでゆく姿こそ、清純の悲しみではないか。けれども、おれは、なんだ。みれんだの、いい子だの、ほとけづらだの、道徳だの、借銭だの、責任だの、お世話になっただの、アンチテエゼだの、歴史的義務だの、肉親だの、ああいけない。  嘉七は、棍棒ふりまわして、自分の頭をぐしゃと叩きつぶしたく思うのだ。  「ひと寝いりしてから、出発だ。決行、決行。」(太宰、姨捨、同書、p123-125)

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補註# 2021年3月11日付けで紹介した山本周五郎の「おたふく」では、男からの単純・直情型の嫉妬を描いていて、太宰版「姥捨」と対照的である。大人のための”ど真ん中の”メルヒェン人情落語「おたふく」。https://quercus-mikasa.com/archives/11884

補註## 重ねて四つ (男女二人を重ねて、まっ二つに斬って四つにするの意) 密通した男と女とを並べておいて制裁することをいう。重ねて四(よっ)つ。 ※歌舞伎・夢結蝶鳥追(雪駄直)(1856)三幕「重(カサ)ねておいて四つにされる、相は元よりないけれど」出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典より。

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姨捨山(冠着山)山頂・筑北村側から見た山頂付近(ウィキペディアより引用)

 

補註: さらしな堂アネックスさんのサイト:  https://www.sarashinado.com/2019/06/08/saratabi249/ から、<以下引用>

古今和歌集に載る わがこころ慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月をみて(よみ人しらず)の和歌。 この歌が詠まれた今から約1200年前、さらしなの里は「棄老の里」「月の名所」どちらのイメージでとらえられていたのか。信州大学名誉教授(国文学)の滝沢貞夫さん(2016年死去)が「しなの文学夜話(上)」で展開しているお考え:滝沢さんは月の美しさが歌の核になっているとのお考え。それゆえにこの歌は月が大好きだった都人たちに口ずさまれて物語にも育ち、多くの人を救い、癒してきたといえると思います。・・そして「慰めかねつ」和歌は古今和歌集に収録後、たくさんの貴族の耳目に触れるうちに独立した歌として一人歩きを始め、「姨捨山」を字義通りに受け取りそこに自分を重ねる人が出てきたと滝沢さんはいいます。それは平安時代、宮廷につかえていた女性の女房たちで、自分の境遇を不安定に感じていたので、姨捨にわが身をかさねた物語をつくるようになり、それが「姨捨」という題で、古今和歌集から約50年後に成立した大和物語に収録されたと滝沢さんはいいます。・・ 救済イメージを昇華させた能楽 大和物語の「姨捨」の物語は、その後、今昔物語集などにのる物語の原型となったもので、古今和歌集の成立から約400年後の室町時代には、現在は世界無形文化遺産である能楽(謡曲)へと発展しました。能楽大成者の世阿弥が作った「姨捨」です。これもタイトルだけみると、悲しい暗い物語ですが、そこで繰り広げられているさらしなの里の世界は大変清らかで輝いています。・・山に捨てられても毎年中秋には現れ、老女のかなしみが癒され魂が救済される物語です。世阿弥の流れをくむ観世流が稽古に使う謡本(うたいぼん)も「姨捨」については「単に衰えた老媼をえがくのでなく、秋の皎々たる明月の霊光を人格化したものであり、神々しいまでの清高さがある。明月のもとに白衣の老女が、少しも嘆き悲しむことなく清浄な仏説を述べるあたりに、至妙の感を催せしめる」と書き、舞が目指す世界の清らかさを指摘しています。 つまり、不幸せな境遇の老女を救う場としてさらしなの里(姨捨山の異名を持つ冠着山)が選ばれ、そこに現れる美しい月が救済のツールとなっているのです。「慰めかねつ」和歌で都人に発見されたさらしなの里、そこに現れる月の美しさを、より深く発展的に表現したのが謡曲「姨捨」なのです。 以上、さらしな堂アネックスさんのサイトより引用終わり。 https://www.sarashinado.com/2019/06/08/saratabi249/

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補註: 冠着山 ウィキペディアによると・・・<以下引用>

冠着山(かむりきやま)は、長野県千曲市と東筑摩郡筑北村にまたがる山。標高 1,252メートルで、長野盆地南西端に位置する。幾つかの呼び名があり、「冠山(冠嶽)」「更科山」「坊城」とも言われる。俗称は姨捨山(おばすてやま・うばすてやま)。古称は小長谷山(小初瀬山・小泊瀬山、おはつせやま)。
山名の由来
由来は諸説あり、主なものを列記する。
* 冠着山の呼称は「天照大神が隠れた天岩戸を手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した」と日本神話により伝えられている事による。
* 姨捨山の呼称は、一説には奈良時代以前からこの山裾に小長谷皇子(武烈天皇)を奉斎しその料地管理等に従事したとされる名代部「小長谷(小初瀬)部氏」が広く住していたことによるらしい(棄老伝説によるものは後述)。この部民小長谷部氏の名から「オハツセ」の転訛(国郡郷名等を好字二字に表記するようにとの布令に従ったとする説もある)が麓の八幡に小谷(オウナ)や、北端の長谷(ハセ)の地名で残り南西部に「オバステ」で定着したものとされている。奈良県桜井市初瀬にある長谷寺に参詣することを「オハツセ詣で」と言われるのと一脈通じている。なお、仁徳天皇の孫とされる雄略天皇や聖徳太子の叔父に当たる崇峻天皇など複数人が初瀬(泊瀬)の皇子と称されている。
* 別名の更級山の呼称は更級郡の中央に位置することから、坊城は山容が坊主頭のようであり狼煙城でもあったとの伝説があることから。
* 江戸時代の街道に近く猿ヶ馬場峠、一本松峠や古代からの東山道支道の古峠にも近い。これらの難路脇には行き倒れた旅人の屍が放置されていて、それらの骸を集めて弔った所「初瀬」とする説。
* 水が地表に湧き出してせせらぎとなって川が流れ始める所を初瀬と言うことからとする説。
以上の他にも「オバステ」の地名の言われは数種あるとされる。
棄老伝説
『大和物語』(950年頃成立、156段)が姨捨説話の初見であり、謡曲(14世紀には存在)にも取り上げられているほか『更級日記』(1059年頃)、『今昔物語集』(1120年頃以降)、『更科紀行』(1688年)でも言及されている。このように往古から全国に知られた山であったが、更級郡に位置するという記述があるなど、特定された山ではなく、長野県北部にある山々の総称という見解もある。
以上、引用終わり。
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補註: 太宰の「姨捨」は谷川温泉が舞台、そして3月(東京ではセルを着ている)なので、
わがこころ慰めかねつ みなかみや 谷川岳に 残る雪見て
谷川温泉に大学の寮があった。私も谷川温泉の寮に泊まり、秋の晴れた日に、谷川岳に登った思い出がある。初めて登った2000メートル級の山。今から、45年も前のことなのだ。やはり雨が降って、ずっと宿に泊まって閉じ込められていた・・。晴れた日を待って谷川岳に登ったのだから、ずいぶん日程にゆとりがある一人旅だったのだろう(すっかり忘れてしまった)。
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