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もっとも苦しいといわれる病気にかかりながら、臨終まで、苦痛の呻きすらもらさなかったのも、それまでにもっと深く、もっと根づよい苦痛を経験したためかもしれない。

2023年2月5日 日曜日 曇り

山本周五郎 赤ひげ診療譚 新潮文庫 昭和39年(初出は昭和33年、『オール読物』3月号から12月号)ただし、このページの引用は青空文庫版より。

 ・・去定は溜息ためいきをついた、「この病気(補註:病気の診断は膵癌の末期)はひじょうな苦痛を伴うものだが、苦しいということさえ口にしなかった、息をひきとるまでおそらくなにも云わぬだろう、――男はこんなふうに死にたいものだ」
 そして去定は立ちあがり、森をよこすから臨終をみとってやれと云った。
「人間の一生で、臨終ほど荘厳なものはない、それをよく見ておけ」
 登は黙って坐る位置を変えた。
 彼は初めて病人の顔をつくづくと見た。それは醜悪なものであった。すでに死相があらわれているし、肉躰にくたいは消耗しつくしたため、生前のおもかげはなくなっているのであろうが、眼窩がんかも頬も顎も、きれいに肉をそぎ取ったように落ち窪み、紫斑のあらわれた土色の、乾いた皺だらけの皮膚が、突き出た骨にりついているばかりだった。それは人間の顔というより、殆んど骸骨そのものという感じであった。(山本、同書、p48;本文は青空文庫より)

 ・・「あたしはそう思いました、おっ母さんがあの人と逃げたとき、そして、あたしがおっ母さんに伴れだされ、呼び戻しに来られて断わったとき、――お父っさんはどんな気持だったろうかって、どんなに悲しい、辛いおもいをしたろうかって、思いました」
 おくには富三郎に云って、金杉のほうへ引越した。そこでともを産み、助三を産んだ。するとまた父が捜し当てて来、幾らかの銀を置いて去った。そのとき父は、槇町の店をたたんだこと、もしなにかあったら、伝通院裏の柏屋という旅籠へ知らせろ、ということを告げたのだという。
 ――おれはもう仕事をする張りもない、なにもかもつまらない、おれの一生はつまらないもんだった。
 六助はそう云い残して行った。・・・(中略)・・・

 ・・あの場末のさびれた町の、古くて暗い木賃旅籠は、そういうときの彼にとっても恰好だったのだ。登にはそれが眼にうかぶように思えた。蒔絵師として江戸じゅうに知られた名も忘れ、作った品を御三家に買いあげられるほどの腕も捨て、見知らぬ一人の老人として安宿に泊り、うらぶれた客たちの中で、かれらの話を聞きながら黙って酒を飲む。――そうだ、と登は心の中でつぶやいた。そういうところでしか慰められないほど、六助の悲嘆や苦しみは深かったのだ。もっとも苦しいといわれる病気にかかりながら、臨終まで、苦痛の呻きすらもらさなかったのも、それまでにもっと深く、もっと根づよい苦痛を経験したためかもしれない。登はそう思い、眼をつむりながら溜息をついた。(山本、同書、p72-73)

 ・・

「人生は教訓に満ちている、しかし万人にあてはまる教訓は一つもない、殺すな、盗むなという原則でさえ絶対ではないのだ」それから声を低くして云った、「おれはこのことを島田越後に云ってやる、そうしたくはない、それは卑劣な行為に条件はないが、そうしなければならないときにはやむを得ない、いまは教訓にそっぽを向いてもらうときだ」石町の堀端へ出たとき、去定は登に向かって先に養生所へ帰れと云った。
「おれはこれから町奉行に会って来る、夕餉ゆうげを馳走になる筈だから、帰りは少しおくれると云ってくれ」
 登は承知して去定と別れた。(山本、同書、p76)

 ・・

 登はまだけげんそうな顔で、黙って去定を見ていた。
「黙っていると卑劣が二重になるようだから云うが、越後守は下屋敷に側室を隠している」と去定はまぶしそうな眼をして云った、「めかけを持つくらいのことにふしぎはないが、奥方の悋気は尋常なものではない、おれは、つまりそこだ、おれは、ほのめかしたのだ、――いいから云え、保本、おれのやりかたが卑劣だということは自分でよく知っているのだ」
 だが去定の顔はやはりいいきげんそうで、自責の色などは少しもなかった。
「おくにが放免されたのは当然であるし、十両は奥方の治療代だ、しかも、おれが卑劣だったことに変りはない」と去定は云った、「これからもしおれがえらそうな顔をしたら、遠慮なしにこのことを云ってくれ、――これだけだ、柏屋へいってやるがいい」(山本、同書、p77-78)

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補註: 小石川の傳通院(でんづういん) 徳川家康の生母・於大の方(1602年没)の菩提寺。1945年のアメリカ軍の空襲で墓を除き建物はすべて焼失。本堂などがその後再建された、とのこと。

 目白台の東京大学附属病院分院: ウィキペディアで調べたところ、1908年に現在地(小石川区雑司が谷120番地、現 文京区目白台3-28-6)に移転。そして、2001年6月に閉院とのこと。Googleマップで調べると、現在、東京大学目白台インターナショナル・ビレッジという名称になっていた。

 護国寺前から音羽へ下り、講談社脇の坂道を目白台へと登っていくと右手にあの宮澤賢治の妹トシが入院していたことで有名な東大病院分院があった。さらにその先には田中角栄さんの邸宅とか日本女子大のキャンパスとかがあった。私は大学卒業後しばらくはこの界隈に勤めていたことがあって、駒込(正確には文京区ではなく、坂を下った北区の中里)のアパートから音羽方面に自転車で通っていた思い出がある。そんなわけで護国寺界隈は毎日のように通過していた・・はずであるが、それらを訪れたこともなく、ゆっくりと眺めたこともなかった。名所旧跡を巡るなどという贅沢な余裕が当時の私には薬にするほども無かったのだなあと思い起こす。当時、東京の排気ガスは本当に酷くて、自転車で走ると目が酷くいたくなったものであった。せっかく買ったブリジストンの自転車もほどなく手放してしまった。あれから40年、排ガス規制と技術の進歩のおかげで、現在の東京の空気は(当時と比べて)驚くほど快適になった。自転車で走る人の数もずっと多い。便利で住みよくなってきたものだと東京に行くたびに感心している。

 傳通院の於大の方の墓所、あるいは護国寺の山縣有朋や大隈重信の墓所、なども次回東京を訪れたおりに尋ねてみようと思っている。その際に、この「赤ひげ」の舞台になっている傳通院や護国寺界隈のしもた屋の静かな細道も散策してみたい。

 ちなみに小石川後楽園と東京都戦没者霊苑には、つい最近、つまりコロナ騒ぎの少し前、今から3年ほど前にL氏に案内してもらって訪れたことがある。その時まで、一度も行ったことがなかったのである。せっかく18歳から25年間も東京暮らしをしていながら、ほとんど東京を知らず、その日を生き抜くのが精一杯といった感じの、今から思えば残念な、懸命な庶民らしい暮らしであった。

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Old water well once used by 小石川養生所 (Koishikawa Yojosho), an old Japanese hospital established in 1722 (located in Koishikawa, Bunkyo-ku, Tokyo, Japan).

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