2025年3月28日 金曜日 曇り
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【朗読】山本周五郎「枡落し」 朗読・あべよしみ
「いいよ、いいよ、いまっからそんなことを考えることはねえさ」芳造はてれたようにいそいで云った、「めしでも食おうか」
「向島までゆくにはおそいかしら」
「そんなことはねえさ、けれども花はもうおしめえだぜ」
「牛の御前へゆきたいの」とおうめがそっと云った、「亡くなったお祖父さんはあそこが好きで、暇さえあれば牛の御前へあるきにいったんですって」
「そうだ、あそこには腰掛け茶屋があって、酒も飲ませるそうだからな」
「お祖父さんはそんなにお酒飲みじゃなかったわ」
「そうは云やあしねえ、そういうわけじゃあなく、そういう掛け茶屋で一本の酒をちびちびやる、っていうこともたのしみの一つだということさ」
「あたしお祖父さんに云いたいの」おうめはあるきながら眼を伏せた、「――牛の御前へいって、みんなうまくおさまりましたって、それだけを云いたいの、日本橋石町から御徒町、それから猿屋町って、引越してばかりいたでしょ、だから牛の御前にいちばんお祖父さんの心が残っているように思えるのよ」
「わかるよ、竹屋の渡しでいこうか」
「危ないっ」おうめは芳造を押しやった、「四つ手駕籠よ、気をつけてちょうだい」
「もうかみさん気取りか、渡し場はこっちだぜ」
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補註: 枡落し ウェブ辞書によると・・ネズミを捕らえる仕掛け。 ふせた枡を棒で支え、下に餌 (えさ) を置いて、ネズミが触れると、枡が落ちて閉じ込められるようにしたもの。
「牛の御前(うしのごぜん)」 ウェブ辞書によると・・牛嶋神社の旧い名前です。 現在の牛嶋神社がある墨田公園は、江戸時代には水戸徳川家の下屋敷があった地で、その頃の牛嶋神社(牛の御前)は、現在地よりも数百メートルほど北に在りました。
現町名:中央区日本橋本石町三・四丁目、日本橋室町三・四丁目、日本橋本町三・四丁目
石町(こくちょう): ウェブ辞書によると・・概要:町名の由来は江戸初期、米穀商が集住していたことから「石町」の名が成立した。寛文年間(1661~1672年)頃、神田に新石町ができたことで「本石町」と改称し消滅。詳細は本石町を参照のこと。
猿屋町: ウェブ辞書によると・・東京都台東区浅草橋二・三丁目にあたる町丁で、1934年に浅草鳥越二丁目、浅草橋二・三丁目に編入され消滅しました。町名の由来には、越後猿屋村から移住してきた猿屋加賀美太夫が住んでいたことや、猿引き(猿回し)が多く住んでいたことなどが考えられています。
四つ手駕籠(よつでかご): ウェブ辞書によると・・4本の竹を四隅の柱にして、割り竹で簡単に編んで垂れをつけた駕籠です。江戸時代に庶民が辻駕籠としてよく利用しました。
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いつかもおうめちゃんと話したんだが、この世に生きていると、思いがけないところに枡落しがあって、うっかりするとそれにひっかかるって。いちど金を渡せば、幸助というやつはなんとか理屈をつけてはせびりに来るでしょう。しかしこれでその心配もなくなりましたよ、と芳造は云った。
「でも、うちの人はどうなの」とおみきがきき返した、「まだ伝馬町にいるとすると」
芳造は手を振って遮った、「なわやの親方に頼んで、いっしょに北(町奉行所)へいってもらいました、そして調べてもらいましたら、あの人は五十日もまえに八丈ヶ島へ送られたそうです、人別を抜かれたあとだから知らせはしなかったということですが、島送りの書類も見せてもらいましたよ」
「ではもう大丈夫なのね」
「なにしろ八丈ですからね」と芳造は表情をひき緊めて云った、「――あっしは八丈がどこにあるかも知らねえが、いのち懸けでも島抜けはできめえってこってすよ」
「ありがと」とおうめが云った、「みんな芳っさんのおかげよ、本当にありがとう」
おみきもちょっと頭をさげたが、口ではなにも云わなかった。憎い、悪い男だったけれど、亭主は亭主、あの人が島流しになって、自分たちの生活は安泰になるだろうけれど、これからの一生、鳥もかよわぬといわれる八丈ヶ島で、囚人ぐらしをしなければならないあの人の気持はどんなだろう。そう思うと、おうめのように、すなおに礼を云う気持にはなれなかったのだ。(青空文庫より引用)
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