中島さんのニーチェ本について昨日の続き:
中島義道 善人ほど悪い奴はいないーーーニーチェの人間学 角川Oneテーマ21 2010年 キンドル版は2014年
2015年3月20日 金曜日 曇り
ずいぶん昔になるが、同じ中島さんの著書で「カントの人間学」を読んだことがある。やや記憶が曖昧であるが、カントが学問として行った「人間に対する考察」を紹介するだけではなく、「カントという人間」に対する(中島さんの)学問的考察をも含んでいたように思う。前者はすでに他の著者によって多くの書物で紹介されている。が、後者に関しては中島さんの本を読んで初めて知ったことも多い。詳しい伝記を読まないと知らされないような生活上の事柄までが書かれていてあっと驚く。カントの生活者としての姿(裏面)と、偉大な哲学者として公のカント像(表面)との矛盾まで知らされたように思う。「カントという人間」に対する理解は、カントの哲学を理解する上では必ずしも役立たないと思われるが、「人間に対する考察」をする人間というものの理解を深める上では私には役立ったように思われる。
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ところで今回の中島さんのニーチェ本(以下、中島本と呼ぶ)は、やや上級者向きだと思った。すなわち、ニーチェをすでに良く理解している上級者が、中島さんのニーチェ理解と対決する(あるいは中島さんと共同で哲学的対話を進める)ような場面に向いている著作だと思う。
たとえば、中島本ではツアラトゥストラをはじめ多くのニーチェ著作からの引用が散りばめられているが、詳細な引用箇所が記載されていない場合が多い。そのため、すでにそれらの書物を通読していてどこからの引用かわかっている上級者でなければ、ニーチェの著書に当たってどのような文脈でニーチェがそのようなことを述べているのかという確認がしづらいのである。
また、中島本では「善人」にテーマが絞られているため、ニーチェ初学者が中島本を読んでも、ニーチェの像が全体として浮かび上がってこない。ややもすると道に迷ってしまうのではないか。中島本を読み終わっても、その次にニーチェの著作のどれを読んでみたらよいかという読書の手引きのようなものがない。初学者は手がかりなしにうち捨てられてこの本の最後のページに到達することになる。すなわち、中島本は残念ながら丁寧なニーチェ入門書ではない。
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(この中島本の標題は「善人ほど悪い奴はいない」となっている。この標題自体がルサンチマン考察の対象となりうる代物である。が、それはとりあえず横に置いて、ここでは標題の内容そのものに立ち入ろう。)
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「善人=弱者」というモチーフは中島本全域で健在である。ただ、私がこの本を読んでいてところどころで気になるのは、「善人」の範疇(カテゴリー)が、各所で揺れるのを感じることである。「善人=弱者」以外にも、「善人=生まれながらの社会的な権力者=強者」、あるいは、「善人=弱者 → 社会的なステップアップ → 権力を手中にする者=強者」つまり「善人=強者」という類いの人間も多い。この場合は、強者といえどもその強さは獲得形質ないし一種の上着であり、衣一皮の違いで人間としては弱者と同じということでもある。この辺りをもう少し整理して語って欲しかったと感じる箇所が中島本では散見される。
もう一つ、中島本ではニーチェのいう「僧侶階級」に関して明確な記載がなされない。中島本で言及されるタランチュラという名称は、「僧侶階級」とはカテゴリーが一部では重なるものの、重ならない部分が多い。
私が先日2015年2月16日付けのブログ「ブドウを食べる生き方」で永井さんのニーチェ本から引用した部分をもう一度以下に引用してみる: 「弱さの、卑小さの本質は、解釈への意志にあるのだ。・・・力弱き者たちの力への意志を、解釈への意志へと変換する力をもった者こそが僧侶である。狐の僧侶はこうした狐たちを集めて’ブドウ真理教’を結成するかもしれない。僧侶は弱者たちに、力への意志を解釈し変える方法を教えることによって、彼らの力への意志を糾合し、自分自身はこの世での(つまり解釈し変えられていない)権力を握るのである。彼は密かに現実の甘いぶどうを食べるのだ。」 (永井均「これがニーチェだ」 講談社現代新書 1998年 p75)
僧侶階級は「自分自身はこの世での(つまり解釈し変えられていない)権力を握る」。すなわち社会の中で実権を握る強者になるところが重要である。
「善人=弱者」ももちろん悪い奴だと思う。中島さんと同感である。が、上に述べた僧侶階級の邪悪さは私には一層憎むべきものだと思われる。これに関しては、人々が是非とも覚醒すべき事柄だと考える。
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善人・悪人という言葉の概念を深く追求してこれを社会通念上の言葉の使い方からひっくり返してしまうといえば、わざわざ海外渡航しなくとも、我らには親鸞がいる。我らの愚禿に関しては残された私の人生を使って精読し考えたいと思う。
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2015年4月15日追記
不生庵さんは「事実認識層の光」という、いわば脳の働き(高次脳機能としての事実と認識の符合否符合照合チェック機序とでも呼べばよいか)を想定して、良心や罪悪感の依って来たるところを説明している。以下は、不生庵さんの2015年4月13日付けブログより引用:
すると、光に照らされると影が生まれるように当人の自我意識内に一つの罪悪感が生まれる。そして当人はこれを自我意識の底に良心が存在するからだと錯覚してしまう。親鸞は悪人こそ救われると説いたけれども、悪をなそうとするものは、その都度、事実認識層の光を受けて、その光の影として自分のなそうとしていることが悪であることを実感する。善人は事実認識層からの光を受けないから、自分は善人だと信じることができ、悪人を救済することを本願とする弥陀の救済に預かることができなくなる。(不生庵さんの2015年4月13日付け・安心と不安(2)http://blogs.yahoo.co.jp/kazenozizi3394/13151963.html より引用)
私の4月15日付けの記事「不生庵さん:事実認識層の光」も参照下さい。
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