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狂の精神の二面:自己貫徹的な誠実さ・自己投棄的な誠実さ

2016年1月12日 火曜日

白川静 狂字論 文字遊心 平凡社ライブラリー1359 1996年

「荘子」は、これらの寓言を通じて、孔子への批判を試みているが、それはたんなる批判に終わるものではない。顔回の立場は、孔子の可能性をその実践理性を超える方向に求めようとするものであろうし、また盗跖は孔子の対極にあるものとして、その論理はまさに狂の論理である。しかし理性が自らを支え、自らを高めるものとして、その形態の一つとして狂気を必要とするものであるならば、盗跖もまた、孔子にとって欠くことのできない対話者であったというべきであろう。(白川、同書、p47)

狂の精神に、私は二つの面があると思う。一は自己貫徹的な誠実さ、孔子のいう「狂者は進みて取る」という積極的なありかたである。もうひとつは自己投棄的な誠実さ、「楚辞」の文学にみえるような、「命ならば幽にもおらん」という、「死をさけることのない」生きかたである。この二つの方向は、しかし決して相矛盾するものではなくて、そのことを絶対至上の命として承けるという、使命感の上にのみ、なりたつことができる。殉教は神体験の場である。(白川、同素、p52-53)

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