culture & history

日び春衣を典するは酒の為に非ず

2016年4月14日 木曜日

秦観から、近所に住んでいた大臣への陳情:

秦観 宋

三年の京国 鬢(びん)は糸の如し
又た見る 新花の故き枝に発(ひら)くを
日び春衣を典(てん)するは 酒の為に非ず
家貧しくして 粥(かゆ)を食らうこと 已に多時なり

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第三句、「日び春衣を典(てん)するは 酒の為に非ず」。これはもちろん杜甫の詩「曲江」をふまえている。杜詩にいう、

朝(ちょう)より回(かえ)りて 日日に 春の衣を典(しちい)れし
毎日 江(かわ)の頭(ほとり)に 酔いを尽くして帰る

そううたった杜甫のようにけっこうな(?)ご身分ではないのです、この私は。(一海、同書、p33)

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補注 宋の時代、(明の時代と対照的に)官僚はとても優遇されていたと学んだことがあるが、具体的にはどうだったのか? 

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補注 秦観 http://semijocular56.rssing.com/chan-25840667/all_p21.html 08/09/15–13:20: ティェンタオの自由訳漢詩 2239のサイトより<以下引用>

・・秦観(しんかん)は繊細な目を持つ詩人です。秦観(1049ー1101)は揚州高郵(江蘇省高郵県)の人。若いころは兵書を読んだりしていましたが、神宗の元豊元年(1078)、三十歳のときに「黄楼の賦」を蘇軾に送って激賞されます。王安石にも詩才を認められます。
 哲宗即位の元豊八年(1085)、三十七歳で進士に及第、定海(浙江省定海県)の主簿になります。そのご蔡州(河南省汝県)の国子監教授をへて元祐三年(1088)に太常博士、元祐八年(1093)には国史院編修になります。
 翌紹聖元年に哲宗の親政がはじまると、蘇軾と親しかった秦観は杭州(浙江省揚州市)通判に左遷され、つづいて処州(浙江省)、柳州(広西壮族自治区柳州市)、横州(広西壮族自治区南寧県)、雷州(広東省海康県)と遠隔地に移されます。徽宗の即位によってようやく赦されますが、宜徳郎に任じられて都にもどる途中、建中靖国元年(1101)、藤州(広西壮族自治区藤県)まで来たところで亡くなりました。享年五十三歳です。

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