2017年9月14日 木曜日 降り続く雨(ときに陽射しもあり)
ミハイル・A・ブルガーコフ 犬の心臓 水野忠夫訳 河出書房新社 (原著は1925年に執筆;文学の集いでブルガーコフ自身が朗読、1926年には原稿は押収され、原稿が作者の手元にもどされたのは1930年;初めて活字になったのは1968年・西ドイツ;ソ連国内で公刊されたのは1987年、1989年;日本語の水野訳は、1971年初版、2012年・復刻新版)
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自然と平行して研究を進める vs 無理に問題をでっちあげる
「・・ぼくはこの五年間、脳から脳下垂体を取り出して、ずっと研究しつづけてきた・・ぼくがどのように仕事をしてきたか、きみはしっているね、想像に絶する仕事だった。そこでいま、きみにたずねるが、それは何のためだったのだ? ある日、可愛らしい一匹の犬を、それこそ身の毛もよだつほどいやらしい人間にしてしまうためだったとは!」
「なにかしら異常なことがあったのです!」
「そう、ぼくはその考えに全面的に賛成だ。それがどうして起こったかといえば、きみ、研究者が自然を感じつつ、自然と平行して研究を進めるかわりに、無理に問題をでっちあげ、カーテンを持ち上げようとしたためなのだ。そのためにシャリコフのようなのができてくるのだ、彼なんか粥に入れて食ってしまえというわけだ」(ブルガーコフ、同訳書、p171)
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ここで注意を要するのは、この物語では人間が犬の性格を帯びて野卑になるわけではなく、元来善良と言ってもいい犬に、下品な人間の性格が乗り移るということだろう。(沼野充義、同訳書、解説p218)
「原稿は燃えない」
このように、「犬の心臓」はソ連社会の不条理をグロテスクに諷刺しただけではなく、笑いを噴出させるようなカーニバル的活力を備えている。だからこそ、いま読んでも、当時のソ連社会の文脈を超えて、新鮮であり続けているのだろう。・・「犬の心臓」は、カーニバル的転倒の芸術的な可能性を十分に活用しているという意味ではカーニバル的文学だが、それと同時に、思想的には革命によるカーニバル的転倒の暴力性・非人間性を批判した「反カーニバル文学」の様相も示すことになる。この作品の奥行きの深さと評価の難しさは、まさにこの二律背反的な課題をブルガーコフが鮮やかに遂行しているということから来ているのではないかと思う。(沼野充義、同訳書、解説p221)
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補註(ネタバレ注意!) 2017年9月15日
「犬の心臓」が書かれたのと同じような時期に書かれたSF作品として、すでにこのブログでも紹介したことのある「ロボット」、それから「われら」、などを連想する。「ロボット」や「われら」の設定が、テーマが必然的に抱えている本質的に難しい問題(解決不能問題ともいえる)を中心に組み立てられているのに対し、このブルガーコフの「犬の心臓」は、その難題がひょっとすると「なかった」かもしれないような偶然・岐路も可能である。というのは、この小説では、犬に移植された人間の組織(ここでは脳下垂体と性腺)によって犬が人になってしまうのだが、その<イヌ→人>がその時代の人間社会での優等生に成長するという可能性もストーリーとしては十分あり得るからである。その場合には、この小説はすっかり様変わりした方向へ進んでしまう。ならば、この「犬の心臓」が抱えている本質的なストーリーの岐路は、「人を教育によって善へ導けるかどうか」というところへ収束してくる。惨めな生い立ちで厳しい環境を生きてきた俗悪な人といった<イヌ→ヒト>シャリコフが突然に教授の前に現れたとして、このヒト・シャリコフを教授にとって望ましい人・シャリコフへと教育(環境)によって変えられるか否かというテーマである。
「犬の心臓」では、手に負えないほど酷いシャリコフの振る舞いに耐えられなくなって、教授たちは再手術を施してシャリコフをもとのイヌに戻してしまう。もともとイヌだった人間をイヌに戻すだけだから刑法や倫理にとっては難しい課題であるが、それは今は重要な問題ではない。「イヌの心臓」のストーリー展開としては、言葉による教育を放棄して生徒や学生に体罰を加える教師・教授に対応する。あるいは、重い罪を犯した人間に対し死刑を執行する社会に対応するだろう。
おそらくブルガーコフ自身はこの小説で「教育の可能性」などをテーマとしているつもりはなかったと思うので、上記の問題にこれ以上立ち入ることは避けたい。
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