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百姓の生き甲斐

2019年11月29日 金曜日 雪

中島正 都市を滅ぼせ 双葉社 2014年版


百姓の生き甲斐

都市機構を潰し、都市活動をやめて、太古に存在した農耕社会に還るということであるが、この場合「人間の生き甲斐はどうなるのか」という疑問がわくに相違ない。朝から晩まで土にしがみついていて、都市の恩恵によるところの、祭りと娯楽とオモチャとアクセサリーと、これらの愉楽が消えたとき(さらには栄光や賞賛も)、果たして人生の生き甲斐はあり得るのか。そのような単調で退屈な仕事の連続に、果たして人間は堪えられるのか、という疑念が−−−。


 −−−百姓の生き甲斐と言えば昔から、次のようなものと相場が決まっていた。

①セチ辛い生存競争から逃れて、悠々と仕事ができるというよろこび。

②生きものを育てる楽しみ−−−経済的効果を度外視して、純粋に育ちを見守ることにおもしろさがある。

③人間に一番必要なものを作ることが最もやり甲斐がある。一番必要なもの−−−それはコメであり、野菜であり、果実である。兵器弾薬やフロンガスなどを製造するのとはわけが違う。

④収穫のよろこびがある。収穫の多少は問わず、穫れた一掬いの玄米の手応えは、命を支える根源として千金の重みがある。

⑤穫れたものを食べる感動、季節(しゅん)の味わいを感謝して食べるよろこびがある。

 −−−などというようなことである。

 だが、百姓の真のやり甲斐とは、そんなところにあるのではなかった。そこにはもっと偉大にして深遠なるよろこびが潜在していたのであった。 そもそも人間の行う一切の仕事の中で、農業だけが神とストレートに直結しているのである。この場合、神という表現を大自然という表現に置き換えてもよいが、とにかく百姓は神と直接向き合って、神と一体になって行う仕事であるということができる。換言すれば、百姓仕事はすべて神の評価、神の審判によってのみ成り立っているということ−−−故に百姓仕事は、人間の評価を必要としない仕事であるとも言えるのである。

 ところが百姓以外の仕事は、すべて人間の評価を得なければ成り立たない。(中島、同書、p220−222)


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