ツナミの小形而上学 その2 未来の破局という問題
ジャン・ピエール・デュピュイ ツナミの小形而上学 嶋崎正樹訳 岩波書店2011年7月(原著は2005年)
2015年1月27日 読了。
人類はつねに科学や技術のなかに、その科学や技術が生み出した問題の解決策を必ずや見出していくだろうと考える者は、未来のもつ現実性を信じていない。そのような理解では、未来とはあくまで私たちが作る者にすぎず、したがってそれは私たちの自由意志と同じように不確実なものでしかない。未来についての学知はありえない、なぜなら未来は私たちが発明するものだから、ということになる。・・・・・
覚醒した破局論では、この未来の非現実化を、形而上学的な一大障害物であると見なす。なぜなら、もし未来が現実的でないなら、未来の破局も同様にそうでなくなるからだ。私たちは破局を回避できると考えると、それが自分たちを脅かしているとは考えなくなってしまう。この円環をこそ、覚醒した破局論は打ち破ろうとするのである。
現代の専門家たちが描く最も恐るべき未来予測を前にして、どのような反応が見られるだろうか? 鉱物のように冷え切った冷淡さ、なんら動じる様子もない無関心である。(ibid, p121)
では未来の破局についてはどう言えばよいだろう? いまだ生まれてもいない子供たちの苦痛の叫び声を、私たちはどうすれば耳にすることができるだろう? (ibid, p122)
「道義的に必要とされる未来のビジョンの感情的側面」について、ヨナスは次のように詳述している。「事実にもとづく未来学の知見により、私たちの中に、責任という意味で行動を促す適切な感情を生じさせる必要がある」(ibid, p123)
私たちのアルキメデスの点は未来にあるはずだ。私たちがその存在を温存したいと願う未来である。(ibid, p123)
大地は子孫が貸してくれたもの(アメリカ先住民の箴言)・・・未来はあるいは私たちを必要としていないかもしれない。だが私たちは未来を必要とする。未来こそが、私たちのあらゆる行いに意味を与えるのだから。(ibid, p10)
その「確実な破局」をいかにして避けるか、というよりむしろ、「確実な破局」を「非現実」の領域に押しやって、目の前の現実に身を委ねてたどってきた道をそのまま進もうとする世界の趨勢を、どのような意識転換によって変えられるのか。(西谷進さんの解説:大洪水の翌日を生きる ibid, p138)
どんな倫理的考察よりもこの目の前の事態が、大々的に作られた神話の中で飽食の夢を追うことをやめ、様相を変えた未来の現実性の中で生きるすべを編み出すことをわれわれに迫っているのだ。時間意識の転換は思考の問題というよりも、すでに現実の要請なのである。(西谷進さんの解説:大洪水の翌日を生きる ibid, p150)
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