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秀吉以前にも明国征服計画は存在した?

2022年2月18日 金曜日 曇り

茂木誠 世界史とつなげて学べ 超日本史 日本人を覚醒させる教科書が教えない歴史 KADOKAWA 2018年

サン・フェリペ号事件と二六聖人の殉教

・・マニラ港を出港したガレオン船のサン・フェリペ号は、日本近海で暴風にあい、航行不能となって土佐(高知県)に漂着しました。・・秀吉は五奉行のひとりである増田長盛を土佐に派遣して乗組員を尋問し、積荷の没収を通告します。水先案内人(航海長)フランシスコ・デ・オランディアはこれに憤り、世界地図を示してスペイン領土が広大であること、日本が小国であることを語ります。 「スペインはいかにかくも広大な領土をもつに至ったか?」という長盛の誘導尋問に対し、オランディアは「スペインはまず宣教師を遣わし、布教とともに征服事業を進める」と口を滑らせました。 長盛の報告を受けた秀吉は、京都・大阪に潜伏中だったフランシスコ会宣教師六人、日本人信徒二〇人を捕らえ、長崎に送って処刑しました(二六聖人の殉教)。その一方、サン・フェリペ号は修理を許され、乗員は翌年春にマニラに戻りました。・・・(中略)・・・この事件は、日本布教を独占してきたイエズス会と、スペインの野心を疑う秀吉によってフレームアップされ、フランシスコ会弾圧に利用されたというのが真相だったようです。(茂木、同書、p270-271)

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秀吉以前にも明国征服計画は存在した

・・秀吉以前に誰かが中国征服のプランをもち、秀吉のときに機が熟したと考えれば、うまく説明がつくのではないでしょうか。

すでに信長が明国征服計画をもっていた、と宣教師フロイスは書き残しています。・・・(中略)・・・

・・巡察使ヴァリニャーノは天正少年使節を引率してマカオに滞在中、スペイン領フィリピンのマニラ総督宛書簡(1582年12月14日付)で・・「東洋に於ける征服事業・・の内、最大のものの一つは、閣下のすぐ近くのこのシナを征服することである。尤もそれは着手すべき時宜と条件に適えばのことである。・・・(中略)・・・ 日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。・・・(中略)・・・国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練をつんでいるので、征服が可能な国土ではないからである。しかしながら、シナに於いて陛下(引用者註:スペイン王フェリペ二世)が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるであろう。(『キリシタン時代の研究』)」 ・・スペインによる中国征服は容易ではないが、日本兵を動員すれば可能である、とヴァリニャーノは言っているのです。(茂木、同書、p273)

・・イエズス会が布教活動を妨害する中国(明)に対して軍事行動を起こすようにスペイン王フェリペ二世に進言し、改宗させた日本人をその尖兵として動員する計画をもっていたことは明かだと思います。 安土城で信長に謁見したヴァリニャーノがこの計画をほのめかして反応を探った可能性があります。これらを前提にすれば、「信長が明国征服を計画していた」というフロイスの記述も無視できないでしょう。(茂木、同書、p276)

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日本への軍事侵攻を働きかけたのは誰か

イエズス会が日本征服計画、さらにカトリック化した日本軍を使った中国征服計画を検討していたことについては、・・高瀬弘一郎氏が『キリシタン時代の研究』(岩波書店)で明らかにしています。(同書、p262)

・ポルトガル商人と結ぶキリシタン大名が、日本人奴隷を輸出していたこと。

・イエズス会が、スペイン国王に日本派兵を要請していたこと。

こうした事実が日本史教科書では軽視、あるいは無視されてきたのはどうしてでしょうか。・・・(中略)・・・ イデオロギー的歴史観にとらわれない実証的な研究ーーたとえば高瀬弘一郎氏がラテン語の原文史料を紹介した結果、イエズス会の活動の隠された一面が少しずつ明らかになってきました。(同書、p264)

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