学ぶこと問うこと

ゲームとしての科学

 

ゲームとしての科学、プレーヤーとしての科学者

 

2010年10月1日

 

自然、多くの生き物が暮らす、変化に富んだ自然。46億年という地球の歴史をたどって、今の私たちがこの眼で見、この身体で感じている。私たちには十分には理解することはできないけれど、不思議なこと、面白いこと、美しいことでいっぱい。

生命科学を研究する科学者として過ごしてきたことを後悔することは、本当は、ないと思っている。不思議なことの科学的な意味を正しく識って、識ったからといってそれでつまらなくなるほど自然は浅いものではない。ひとつを識ることによって、さらに十も二十もの新しい不思議に気づく。さらに謎が深い意味をもつことも理解できて、面白さが増す。ただし、自分が本当に何も識らなかったこと、ますますわからなくなったことを思い知らされる。

3歳の子供のような気持ちで自然と付き合って(研究して)きた今までの道のりをぼんやり思い返していると、さまざまな映像や感覚がよみがえってくる。おとといの午後、府中の田んぼの畦に曼珠沙華の並んで咲いているのを、羽田に向かうバスの車窓から見つけたとき、東京の晴れた9月の陽射しが幼年時代からの思い出の中の光線と交差して混じり合っているような気がして不思議だった。そう、今は古里でも彼岸花が咲いていることだろう。朝露を載せてお日様を浴びたり、真昼の上からの強烈な光に照らされたり、斜めからのオレンジ色の夕陽と交錯したり、彼岸花の並んでいる姿はそれぞれ違っていて美しい。子供の頃から瞬間瞬間で付き合ってきたすべての彼岸花との出会いと訣れをそれぞれきっと思い起こせるような不思議な感覚がする。

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さて、職業としての科学者は、過去の私にとっても、また今の私にとっても、魅力的な職種ではない。ゲームとしての科学、プレーヤーとしての科学者に関しては、5年ほど前(2006年の1月頃)のエッセイにもまとめて書いたことがある。職業としての科学というゲームを私が理解できたのは非常に遅い時期だったし、上手に参加するにはパーソナリティとしての資質に恵まれていなかったこともわかった。

私の本当に優れている得意分野を選べば、すなわちたとえば数学などを専門にしていれば、違った道のりで別の人生を展開できたかもしれないと思いはする。けれども、これは選べなかった道。なので、今となっては何とも言えない。悔いにつながることは、生産的ではなく、考えない方が賢明か。いや、私は今も好きな数学をこつこつと続けている。私の研究室は、どんな分野の書籍たちよりも多く、数学の基本図書が並んでいるちょっと不思議な雰囲気の部屋。数学は私にとっての学問の基盤で有り続けている。たとえ世のために生産的でなかったとしても、私自身のために、これからも続けて深めなければと考える。

数学はさておき、ともかくも、流行の生命科学をも含めて科学というゲームのルールを知らず、途中からはゲームに参加できていなかったことを自覚して、それでも進路修正はせずに自分なりの学問をやって今ここにいる。

ただ、もう少しだけ、やり残していて、やるべきことが残っているので、この職業の片隅に脚を残して何とか踏みとどまって、やるべきことを進めてみたいと考えている。やり甲斐はあることだが、困難に見舞われながらなお続けることは私にとって大変苦しいことでもある。

今回の目標が達成できたら、迷うことなく、子供の頃になろうと考えていたような、不思議な世界を追求してゆく科学者のような詩人のような暮らしに入ってゆきたいと思う。それは子供の頃から抱いていた理想に戻ってゆくことになるのかもしれない。

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以上、2010年10月1日付けWEBページより再掲

 

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