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私たちにとっては涙は口悔し涙だ

2016年6月26日 日曜日 土曜日の朝から雨続き 小雨・風は強い

伊藤礼 伊藤整氏奮闘の生涯 講談社 昭和60年

(補注:「伊藤整氏の死」一編だけは昭和四十五年一月の「中央公論」に発表された。他の十九篇は昭和59年から六十年頃幾つかの雑誌に小出しに発表された。よって、伊藤礼氏の筆致も「伊藤整氏の死」一編だけは若干異なるようだ。少なくとも彼の自転車物や「耕せど耕せど」など近年の物とは異なる。)

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伊藤整氏の死

父は「自分は癌でないと信じている」と言ったが、それはこのときはじめてそう信じることにしたのではない。父は病気のそもそもの最初からずっと信じていたのだし、死のなかに引きこまれてゆくときもそう信じていた。しかもだだ観念的に信じていただけではなかった。そういう信念に基づいて行動していた。(伊藤礼、同書、p238)

他人の手を借りて寝台の上りおりをしなければならぬような父に睨まれると、自分がもう取り返しのつかぬ親不孝者であったことを考えないではいられなかった。今となってはなにもかも間に合わぬのだった。 私は本気になって、何故父は私をあんなに恐ろしい顔で睨むのかと考えた。私には父が私を睨む理由はよく分かった。父は、この親不孝者めが、と存分に私を睨みつけて逝ってしまった。私には、父のなかにそういう血が流れているのが分かる。そういう血を、父は母親から受け継いでいるのだった。それは死を迎えた父のなかで、最後まで崩れないでいたもののひとつだった。  だが父は本当に私を睨みつけていたのだろうか、とも私は思う。本当はあの父の顔は、寝台から便所までの十歩ほどの距離を、バランスをとりながら倒れまいと必死になって持ちこたえている人の顔だったのかもしれない。亡くなった父の寝間着を着がえさせてやるとき、私は父がどれほど痩せていたかをはじめて知った。・・・以下、略・・・(伊藤礼、伊藤整氏奮闘の生涯、p241)

父と共に、生と死に密着しながら生きてゆこうとしても、もう耐えきれなくなっていたのだ。私は癌研のあのチョコレート色の建物に押し潰されそうになっていた。(伊藤礼、同書、p238-9)

私は他の人は肉親を喪ったときどのように泣くのか知らない。きっと死も涙もさまざまなのだろう。だが私たちにとっては涙は口悔し涙だ。私たちは残された者の淋しさなどあまり感じない。・・私たちが泣くのはかならず、私たちの誰かが「あと五年、生かしてやりたかったなァ」と言うときだった。「いや、あと半年でも、十日でも」と言いあって私たちは泣く。そうすると胸の奥底から、胸いっぱいの空気を吐きだすほど大きな溜息がもれてくる。(伊藤礼、同書、p244)

父が生きている間は、私たちは決して父の心情のなかなどに立ち入るようなことは許されなかった。またそのうような真似は家中の誰ひとりとしてしようと思う者はなかった。・・・(中略)・・・ だが私と兄はトランクを開けて、三十年来の私の家の暗黙の約束ももう必要のないものになったことに気づいた。私たち父子にはもうおたがいに心のなかを覗きあうことを裂ける必要はなくなったのだ。・・・(中略)・・・父は、死んではじめて私たちに身近なものとなった。(伊藤礼、同書、p245)

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補注 癌研のあのチョコレート色の建物
伊藤整さんは最期、癌研で亡くなられた。わたしも過去に2回、(豊島区上池袋の)癌研病院の病室に入院した経験があり、「癌研のあのチョコレート色の建物」を、昔の記憶の中から朧に思い出す。

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