agriculture

写っている人々の表情の向こう側に年月の流れがみえる

2016年6月25日 土曜日 朝から雨

伊藤礼 伊藤整氏奮闘の生涯 講談社 昭和60年

写真

この写真は平和そのものだが、そういうことを知ってからこの写真を見直すと、写っている人々の表情の向こう側に年月の流れがみえるような気がする。それだけの年月のこちら側の写真のような気がする。しかしこの写真に写っている人々は妹も含めて、母以外みなもうこの世にはいない。(伊藤整氏奮闘の生涯、p14)

赤痢

病院で私はお父ちゃんを迎えに行こう、お家へ帰ろうと言って一晩ぐずぐず泣いていた。・・・(中略)・・・私も「何故お父さんがいいかというと、僕好きなの」と言った。(伊藤整氏奮闘の生涯、p40)

殴られた話

父についての私の記憶は、そのときどき私たちが住んでいた家にまつわって浮かび上がって来る。私たちはそう頻繁に引越しをしたわけではないが、それでも私が物心ついてからでも数回家は変わっていて、それが物事をおもいだす時の手掛かりになる。 太平洋戦争が始まった昭和十六年には私たちは杉並の和田本町にいた。この家にこしてから私は幼稚園に通い、小学校に入り四年生まですごした。小学五年生の時私たちは世田谷の千歳烏山に移ったが、その頃から戦況が悪化して私たちは北海道に疎開し、その家も売り払われて終わった。私たちがそこに住んだのは二年余りにすぎなかったし、しかも私自身はその間学童疎開で半年を上諏訪で送ったから、少年時代の私の生活の記憶の大部分はこの和田本町の家に澱んでいる。  私の父の像の原形は和田本町時代の父の印象から生まれていた。それはかなり長い間私を支配していた。これは一言で言えば甚だ暴君的な人間像だった。大袈裟に言えば、この世に私が生まれてきたことは失敗であったと考えざるをえぬ状況で私は和田本町時代の人生を送った。大人という状態に達するまでの遙かな年月を絶望的な思いで眺めたことが私の人生の中に二回あったが、その第一回がこの時だった。・・父に殴られたり蹴られたりする日日から離脱することに関しては私の人生は真暗だった。(伊藤整氏奮闘の生涯、p44)

「水に流す」とか「このことは無かったことにしよう」というような便利な言い方、解決の仕方があることを私はまだ知らなかった。後年そういう言葉を知った時、私がここにこそ仏というものがある、救いというものがあると思ったその背後にあったのはこの頃の経験だった。・・・(中略)・・・「お母さんだと思って馬鹿にして」と言われたときの結末は経験的にいって楽観できるものではなかった。(伊藤礼、同書、p47)

いま私も子供をもつ身分になっていて、似たようなことをしているらしい。なんということだと思う。さっぱり訳がわからない。親父と同じことをしなければご先祖さまに申し訳が立たぬといわんばかりに子供を殴ったりする。子供は子供で、おれはお前の子供だと言わんばかりに、殴られもしおない時に首を竦める。そんなことに騙されてなるものか、おれにはちゃんと分かっていると私は思う。まことに恐るべきことになっている。これが安芸門徒である伊藤の家の血筋かとも思う。(伊藤礼、同書、p49)

しかし父が怖いという気持ちは父が死ぬときまで続いた。私は父の息が絶えたときも、そばによるとグッと睨まれてなにか一言いわれそうな気がした。本当に死んだことを確かめるまで安心できないような気がした。(伊藤礼、同書、p50)

*****

補注 安芸門徒(あきもんと) ウィキペディアによると・・・
安芸門徒(あきもんと)は、鎌倉時代末期から南北朝期に成立し、現在まで続く安芸国(広島県西部地域)の浄土真宗門徒の総称である。
以下、ウィキペディアから抜粋すると・・・

浄土真宗の勢力拡大と、戦国大名化
この頃(一向一揆の時代)の備後国門徒衆は下野国の専修寺系であり、一向一揆ではなかったと推測される。そのためか安芸国や備後国には一向一揆は存在せず、当時は安芸国の分国守護大名であった安芸武田氏の保護を受けていた。仏護寺(現在の本願寺広島別院、元は天台宗寺院)が創建されたのも、この安芸武田氏の庇護を受けていた頃である。そして明応5年(1496年)、仏護寺第二世円誓の時に浄土真宗に改宗して、安芸国の浄土真宗の中心となった。しかし、安芸武田氏は周防・長門国の守護大名大内氏や安芸国人の毛利氏の勢力拡大に押されて徐々に衰退し、天文10年(1541年)、ついに安芸武田氏は、毛利元就によって居城の佐東銀山城を落とされ滅亡する。城麓にあった仏護寺も兵火に焼かれて廃墟となった。天文21年(1552年)、仏護寺の三世超順は毛利元就と面会して協力を仰ぎ、仏護寺は再興された。元々信仰心に篤い元就は、仏護寺に手厚い保護を与えた。その元就の恩に報いるべく、牛田の東林坊(現広島市中区寺町の光円寺)等のように、毛利氏の勢力伸張に協力して、多くの軍功を挙げた安芸国の真宗寺院も存在する。また、戦陣を同じくすることによって、毛利氏傘下の水軍衆も浄土真宗に入信して門徒と化していった。

織田信長包囲網と本願寺の敗退
要害堅固で士気の高い門徒衆が立て籠もった石山本願寺は織田氏の攻撃を支えきっていた。そのため信長は包囲による兵糧攻めを計画し、実行に移した。物資の補給を断たれた本願寺は毛利輝元に支援を依頼。この支援要請を輝元は承諾し、村上水軍、小早川水軍を主力とする毛利水軍を派遣して、兵糧や物資の搬入を行うことに決定した。この毛利水軍には安芸国内から集まった門徒衆も加わっており、石山合戦の間に毛利家臣団の門徒化、門徒の組織化と毛利家臣化が進んだ。天正2年(1575年)の第一次木津川口の戦いで、毛利水軍は織田水軍を撃破し、石山本願寺への物資搬入を成功させた。これに対して織田信長も大砲を装備し、鉄の装甲を施した巨大な鉄甲船6隻を中心とする織田水軍を大阪湾に布陣。第二次木津川口の戦いの火蓋が切られた。この第二次木津川口の戦いで毛利水軍は敗北を喫し、以後、本願寺への組織立った支援は不可能となった。それから2年、本願寺は戦闘を継続したが、天正7年(1580年)3月、ついに織田信長に降伏。顕如は石山本願寺を子の教如に譲ると、紀伊国の鷺森(鷺森本願寺)に移った。この時、教如は周囲の薦めもあって、しばらくの間、織田信長に石山本願寺を明け渡さず、同年8月になってようやく石山本願寺を織田軍に明け渡した。この直後、石山本願寺は火災に遭って堂宇等を含む全域を焼失するに至った。この石山合戦の間に、毛利氏と安芸門徒の一体化が進み、戦乱を逃れてきた門徒や本願寺支援のために集った門徒が、そのまま安芸国に留まることになった。

江戸時代の安芸門徒
安芸国広島でも、安芸門徒を組織していた毛利輝元が関ヶ原の戦いで敗れて周防・長門国に減封させられると、秀吉子飼いの武将福島正則が安芸国を知行し、広島城に入った。入城した福島正則は治政の一つとして寺院統制に乗り出し、17の真宗寺院を現在の広島市中区寺町付近に移転させ、仏護寺を中核とする体制へと組織した。仏護寺は後に浄土真宗本願寺派に属する「本願寺広島別院」となり、福島氏が改易された後に入った浅野氏にも引き続き保護を受け、安芸・備後両国は浄土真宗大国となった。そして、江戸時代中期から後期にかけて「芸轍」と呼ばれる、慧雲、大瀛、僧叡など著名な学僧を輩出。彼らは多数の弟子を育成し、その弟子達は安芸・備後国内に飛んで布教を続け、山間部でも講等の組織を作り、地域に密着した仏教として、信仰の中心となった。

以上、ウィキペディアより引用終わり

*****

********************************************

RELATED POST