2017年6月19日 月曜日 夜(天候は恐らく晴れ)
C.ディケンズ 荒涼館 I 青木雄造・小池滋訳 ちくま文庫(訳本の初版は1975年筑摩書房の世界文学大系34)
C.ディケンズ 荒涼館 II 青木雄造・小池滋訳 ちくま文庫
C.ディケンズ 荒涼館 下巻 青木雄造・小池滋訳 筑摩書房・世界文学全集23 昭和44年(1975年筑摩書房の世界文学大系34よりも古い版、上記文庫本のIIと第32章だけが重複している。文庫本の訳注はこの全集本には掲載されていない。)
私に割り当てられた物語をどう書き出したらよいのか、本当に困ってしまいます。だって私が利口でないことは自分でも知っているのですから。それは昔からいつも知っていました。・・・以下、略・・・(同訳書、第3章、p35)
・・・たとい秘密ありげに歩いていたとしても? 女にはみんな秘密がある。そんなことはタルキングホーン氏は充分に心得ている。
しかし、世間一般の女は今タルキングホーン氏と彼の家とをあとにして去ってゆく女と、かならずしも同じではなく、この女の質素な洋服と優雅なものごしとのあいだには、なにかひどく調和しないものがある。・・態度と歩き方を見ると、・・まさしく貴婦人である。(同訳書、第16章、p445)
補註 上記の訳本は4巻本で、そのうち第1巻を手に入れ、本日読了。
正直言って、このディケンズ本は、いつものディケンズ本とは語りのスタイルが違っていて、私には読むのがきつい。
語り手は2名、一人はもちろんディケンズで、神の視点に立つ。こちらには文句を言うまい。
一方、交互に現れるもう一人の語り手(書き手)は、エステ嬢。「利口でない」と謙遜する彼女が、そう断ったことで許してもらったとばかりに「利口ではない方式」で延々と物語っていく。どうしてこの物語が始まってしまうのか、全体のストーリーの中で今はどんな時期なのか、そして最後にはどこに行きつくのか・・そのような流れに関して読者には一切の情報が与えられないまま、これが起こり、それからこれが起こり、それからこうなって・・という形、すなわち「ストーリー」が、エステの視点から時間経過を追って語られるだけなのだ。しかも、エステ嬢はあのディケンズのいつもの饒舌癖をたっぷりとお持ちなので、読者はあらゆる場面で寄り道に付き合わされている。実にじれったい。どうして「これ」が語られ、諸々の「あれら」は語られないのか、その「プロット」が450ページ読み進んでも読者には明かされないのである。小説の書き手の女性が「一人称形式」で語っていく場合、しかも彼女が美女で性格が良いと描かれている場合、読者はどうしてもその語り手を好きにさせられてしまいがちなものであるが、・・その少女がディケンズばりの微細な事柄を詳細に語るのであったら、2000ページの物語に付き合いきれるか、どうか?
上記で引用した第16章でなにか秘密ありげな事情がほのめかされる。
今までの450ページは、恐らく最後までには何らかの重要な複線であったことが解き明かされることになるのだろう・・と期待しつつ読み進めるしかないのであろうし、150年前のヴィクトリア朝の読者たちもそんな期待を持って次の号が出るのを待っていたのであろう。うまく期待通りなら、ディケンズはドイルやクリスティーのお手本となる先駆者ということになろうし、がっかりなら、50年後や100年後のドイルやクリスティーに活躍の場をたっぷり残してあげようとした思いやりのある先輩ディケンズという位置づけになろう。
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補註: 岩波文庫で2017/6/17、佐々木徹さんという方の訳で出版されつつあるようだ。「おまえはおかあさんの恥でした」──両親の名も顔も知らず厳しい代母に育てられたエスターと、あまたの人を破滅させてなお継続する「ジャーンダイス訴訟」。この二つをつなぐ輪は何か? ミステリと社会小説を融合し、呪われた裁判に巻き込まれる人々を軸に、貴族から孤児まで、19世紀英国の全体を書ききったディケンズの代表作。(全四冊)・・と紹介されている。ほかにご存じ、田辺洋子さんの新訳も出ているようだ。あぽろん社(2007/08)
補註: アマゾンの世界文学大系本の紹介では: 村上春樹の短編小説に登場したことから、手に取る人が増えたディケンズの力作。筒井康隆も大絶賛のこの『荒涼館』は、読む人が長さに圧倒されるためか、読んで薦める人が少ないのかもしれないが、他のディケンズの名作『オリバー・トゥイスト』『二都物語』『ディヴィッド・コパーフィールド』や『クリスマス・キャロル』より以上に、小説の構成が緻密で巧みで、複雑のようでいて絡み合いが面白く、小説の極致といえる作品。他の名作以上に、小説らしく作り上げられている。・・とある。
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2017年7月10日 月曜日 晴れ
補註 全集本で「荒涼館」を読み進めている。このページの冒頭に6月19日付けの記録が見られるので、もうかれこれ3週間にもわたって「荒涼館」を読み続けているのであることに、今さらながら驚く。「エスタの物語」は次第に面白くなってきている。これも辛抱しながら最初の4分の1を読み終えたことからの継続である。
イギリスの法律の一つの大原則は、現状をそのまま続けさせよ、ということである。これほどはっきりした、確実な、またこれまできわどい目にいろいろ会いながら、終始一貫守られてきた原則はない。こう考えてみると、法律というものは首尾一貫した体系で、とかく素人が考えるようなめちゃくちゃな混沌ではない。法の大原則とは君らの腹を痛ませて現状を続けさせることなのだ、と素人どもにはっきりわからせてやれば、きっと彼らはぶつぶつ不平をいうのをやめるだろう。(ディケンズ、同訳書、全集版下巻、p110)
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2017年7月11日 火曜日 曇り一時雨
・・じきにスントールバンズに着き、夜明け少し前に車から下りました。やっとこのときになって、前夜の出来事の筋道がちゃんと分かりかかってきて、あれは夢ではなかったのだと思い始めるのでした。(ディケンズ、同訳書、全集版下巻、p334)
補註 後半、タルキングホーン氏殺害事件とバケット警部の活躍からは、小説は俄然テンポを上げて切迫しながら転がり出す。その面白さは素晴らしい。上記に引用したスントールバンズの地名もこうして警部とエスタ嬢とが奥方の道行きを追跡する場面での重要地名となってみると、前半のノンビリしたエスタ嬢の叙述の中で私が読みながら見すごしていたことを反省させられる。本書をまだ読み終わってはいないものの、このディケンズ本は、2度目に読むときには前半の部分も大変面白く読めるのではないかと、後半を読み進んでいる読者に感じさせる。文庫本にして恐らく2000ページ近い本書を、生涯に何度も読み返すためには、相当の長生きをすることが前提であり、ディケンズ読破は、人生を楽しい、長いものに(場合によっては短すぎて物足りないものに)してくれるはずである。さて、これからエスタは、その母は、どうなるのだろうか・・雨読のプロとなって読み進めることとする。(雨がまだ降らないのであるが・・今にも降り出しそうである)。
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