「三国志」には筆を押さえた個所が多い。

2018年6月23日 土曜日 曇り
岡田英弘 日本史の誕生 ちくま文庫 2008年(オリジナルは弓立社・1994年)

・・中国人にとっては建前だけがあって本音はなく、言葉は事実から遊離して、言葉のうえだけでつじつまを合わせるものになってしまっている。これが高度に発達した政治文化の宿命なのである。
 三世紀の中国でも、これはすでに起こっていた。・・・(中略)・・・政府公認の歴史を書くこと、これ以上に政治的な行為はない。・・・(中略)・・・「三国志」には、三世紀末当時の中国の政治の現実への妥協から、筆を押さえた個所が多すぎて、重大な事件でさえ、ほとんど細部に触れずに通りすぎたところがかなりある。だから一世紀以上をへて、そうした配慮が必要でなくなった四二九年、南北朝の宋の人・裴松之が「三国志」の注を書き、陳寿が避けてとおった史実について、多くの史料を引用して増補しなければならなかったのである。(岡田、同書、p75)
**
2018年6月27日 水曜日 雨
われわれ日本人は、七世紀の建国以来、十九世紀に至るまで、つねに中国の存在を意識しながら、しかも中国と深い関係に入ることを避けてきた。いわば鎖国は、日本の建国以来の国是であった。それが日本の地政学的必然であり、それが日本の歴史である。関係を避けきれなくなって中国に巻きこまれて失敗したのも、また日本の歴史である。(岡田、同書、p342)
**
*****
補註 裴松之 ウィキペディアによると・・・
裴 松之(はい しょうし、372年 – 451年)は、中国東晋末・初の政治家歴史家。河東郡聞喜県(山西省聞喜県)の人。は世期。裴珪の子。陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。自身の伝は『宋書』・『南史』二史にある。また、に仕えた裴潜の弟・裴徽の6世の孫に当たるという。子の裴駰は『史記集解』の撰者である。曾孫(裴駰の孫)には裴子野がいる。
「裴松之注」
『三国志』の「注」は著者である陳寿の文章の簡略すぎる部分を補うために、陳寿の使わなかった史料も含め、異同のあるものは全て載せるという方針で書かれた。これらの「注」は「裴松之注」(略して「裴注」)と呼ばれている。
史料の良否はあまり気にせず取り入れている(「信用できない史料である」などとことわったりしながらも載せている)ため、事実性はともかく陳寿の文章に比べて読み物としては格段に面白くなっていると言える。そのため講釈師の話の種になり、そこから『三国志演義』の誕生につながってゆくことになる。
また、出典を明記しているため、同時代やその少し後の時代にどのような史料があったのか、内容も含めて知ることができるし、著者の立場や時代によって、どのように説や主張に食い違いがあるかを知ることもできる。当然ながら、同じ事件であっても側の記録と蜀漢、あるいは側の記録ではトーンが大きく違っている。さらに、同時代史料と魏の次代である西晋、さらにその後である東晋に成立した史料では、事件に対する受け止め方も変わってくる。そうした比較検討の材料を記録に残したことで、史料としての価値を高めている。
例えば魏の曹髦が殺された事件では、事件に西晋を建国した司馬氏が関わっているため、陳寿は記述をぼかしている。裴松之は習鑿歯の『漢晋春秋』は類書でもっとも成立が遅いが、記録された殺害の顛末が一番まとまった内容であるとして、注の筆頭に引用し、続いて異説を挙げている。読者に史料の比較検討を促しているのである。また、裴松之は自説に反する文献も注に引用しているので、裴説の再検討もできるのである。
引用されている文献は、魏・呉・蜀漢の順に多い。ただし、本文の分量に対する割合では、魏・蜀漢・呉の順となる。陳寿に対しては敬意を以て接しており、また蜀漢の特に諸葛亮にも好意的な態度が目立つ。加えて荀彧審配など国家や主君に忠義を尽くした人間を高く評価し、彼らへの異伝に対しては感情的な反論を書き残している。『三国志演義』で採用された蜀漢についてのエピソードは、多くを裴注に拠っている。しかし、後世盛んになった講談や三国志演義などの蜀漢正統論による創作では、裴松之注の根底に見られる陳寿への敬意は引き継がれなかった(ただし、『三国志演義』は刊本によっては「晉平陽侯陳壽史傳。後學羅本貫中編次」(嘉靖年間の版本)と、陳寿を原作者として扱っているものがある)。
<以上、ウィキペディアより引用終わり>
*****
********************************************