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小浜逸郎 日本語は哲学する言語である(2)

2018年12月30日 日曜日 曇り時々雪

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である 徳間書店 2018年

「こと − もの」問題

「こと」とは、語ることができ、語られるに値するはっきりとした輪郭を持った物事、あるいは、もう語られてしまって、共同体のメンバーたちに共有されている物事であり、

「もの」とは、それと対極にあって、語られるべき素材はそこにあるのに、まだうまく「言」にまで育っていず、そのため共同体が、なんとなくぼんやりとしたイメージでしかとらえられていない物事、

 ・・このように「こと」と「もの」とを分けることによって、そこに、ある共同体の生活が何によって安定を得、何を恐れ、何に対して夢や気体や不安を抱くか、そのプロセスを理解するためのヒントが得られるでしょう。(小浜、同書、p106)

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「ひと − もの」問題

・・日本語的思考は、「もの」に関心を寄せる場合でも、それを死んだ自然として対象化するのではなく、必ずなにがしか「ひとびと」への関心に引き寄せようとします。その引き寄せの媒介をなしているのが、情緒の作用なのです。(小浜、p115)

 ・・言葉とは、西欧人が考えたようにロゴスではなく、むしろ日本人がとらえたように、「言霊」なのです。この把握の仕方は、言葉を発するもの、受け取るものにとっての魂のやり取りを意味しています。ですから、それは単に世界のありさまを写し取るものなのではなく、人と人との交流の姿そのものなのです。・・ 西欧の言語哲学が、その研究対象を、論理的に整序された陳述形式に過剰なほどエネルギーを集中させるのに対して、日本語による言語哲学は、その関心を、日常の共同的なやり取りそのものにまなざしを注ぐのです。(小浜、同書、p118)

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 ・・では日本語で(を)哲学するというとき、何をどのようにすればよいのか。

 西洋的な言葉の運びに制約された「哲学」という言葉のこれまでのイメージを変えるのです。哲学的(論理的)思考一般から離れるのではなく、それを駆使しつつ、日本語の語彙、文法構造、言い回しなどの独特さがはらんでいる人間把握、世界把握のあり方を解明し、それによって、新しい思考の地平を開いてみせるのです。(小浜、同書、p108-109)

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