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確率のはなし

大村平 確率のはなし 基礎・応用・娯楽 日科技連 改訂版・平成14年(初版は昭和43年)

2015年2月20日 金曜日 晴れ、比較的暖かい。道の雪が溶けてまるで3月のような風景だ。今年は雪が少なくて暖冬と言ってもいいだろう。

大村平 確率のはなし、本日で読了。一般教養書と数学書の中間ぐらい。閾は低く、あっという間に読めてしまう。が、応用編では具体的な事例、たとえば「待ち行列を作ってみよう」、モンテカルロ・シミュレーションなどが紹介されおもしろい。

マルコフ過程:

一般に、ある状態から、ある状態へ移り変わる確率を推移確率と呼んでいます。(同書、p224)

現在の状態が1回前の状態で決まるような確率の過程を単純マルコフ過程といっています。そして、現在の状態が、1回前と2回前の状態の両方によって決まるような確率の過程は2重マルコフ過程といわれます。同じように、3重マルコフ過程も、4重マルコフ過程も考えることができます。(同書、p226)

エルゴード性:
数多くの試行の繰り返しの後には、最初の状態に関係なく一定の確率状態になってしまうような性質をエルゴート性といいます。私たちの身の回りにはこういうエルゴード性を持った現象がいくらでもあります。(同書、p236)

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本書は事例の数式が大変おもしろい。うまく応用が利く場面にいつか遭遇しそうだ。

とくに、VIII章「ゲームの理論」は、とてもわかりやすい入門編になっており、多くの方々に推薦できる内容となっている。

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本書は数学本ではあるが、社会にとって非常に大切な「確率の倫理」に関しても記載されている。「確率の倫理」とは初耳で分かりにくい言葉である。私なりに読み解いてみると、

1.「世界・社会・世の中・人生で、ある確率をもって起こる偶然の事象 stochastic phenomena に関して、人びとの選び取るべき正しい行動選択を決定する方針・考え方・ストラテジー、つまり倫理」のようなものを、この本の著者の大村さんは、「確率の倫理」と名づけて用いていらっしゃるようだ。つまり「偶然事象(蓋然性をともなった事象)を対象とした倫理」のことである。

(以下、本書 p243 より引用)・・・まったく便利になったものですが、そのうらには、いくらかの確率で無惨な死亡事故がつきまとっています。
 だからといって、飛行機も原子力発電も自動車も存在すべきではないという議論は成り立ちません。それらは私たちの社会に大きな利益をもたらしてくれるからです。それでは、いったい、私たちはこれらの利益の代償として、どれだけの死の確率を許容すべきなのでしょうか。(以上、同書、p243)

フランスのエミール・ボレルという数学者は、
 個人的尺度において無視できる確率は 10のマイナス6乗。
 地上的尺度において無視できる確率は 10のマイナス15乗。
 宇宙的尺度において無視できる確率は 10のマイナス50乗。
ぐらいだ、というようなことを言っています。このくらいの確率で起こる現象は、起こらないと考えてよい、というのです。(以上、本書、p244 より引用)

エミール先生の提案は、これはこれで一応はつじつまがあっているようです。しかし、宝くじの1等に当たる確率は、ほぼ10のマイナス6乗です。そして、多くの人たちが1等に当たることを夢見て宝くじを買っていきます。個人的尺度では無視すべき確率でしかないのに、都合の悪いほうの確率(注:東京で1日のうちに交通事故で死亡する確率など)は無視して、それと同じ程度の都合のよいほうの確率を期待するのは、人生をほがらかに暮らすのにはぐあいがいいかもしれませんが、論理的には矛盾があるように思われます。人間の意志を決定するための手段として確率が使用されるとき、共通な判断がなされるためには、何かもうひとつ、説得力のあるめやすが必要であるように思えてなりません。(同書、p245-6)

2.一方、「人間の意志がはいらない偶然を私たちがふんだんに利用するとき、その偶然の結果に私たちがどういう責任を持つべきかに関して、新しい倫理が必要」(同書、p246)

モンテカルロ・シミュレーションをコンピュータにさせて判断の資料を作り出すことも行われており、人の判断を決定づける資料が「確率」によって作られている。

(以下、本書 p246 から引用)この場合、偶然が人間の判断を決定していると考えることができます。もし、その偶然が、人類を破滅に追いこむような失敗をやらかしたとしたら、いったい、どういうことになるのでしょうか。
 私には、どうしても、手おくれにならないうちに、確率を利用するための倫理が確立されなければならないように思えてなりません。(以上、本書 p246 より引用)

この場合の「確率を利用するための倫理」とは、上記1に記載した「蓋然性を対象とした」倫理に一部は重なるが、メインには「確率を利用する」ための倫理の意味である。

コンピュータ・シミュレーションなどの技法で導き出される判断根拠がどこまで信頼に足るものかを含めて、技術的にも難しい問題を多く含んでいる。大村さんが提唱されているような倫理は、科学的に十分に深い議論を通じて鍛えられるべきものであろうが、人材的にも、時間的にも、十分なことができていないのが現状であろう。それはこの本が書かれた昭和43年頃(1968年)も、その47年後、私が読み終えた2015年でも変わらぬ現状である。

しかし、2011年の福島第一原発事故を経験してしまった私たちは、「手遅れ」になりつつある現状をより深く見つめ、待ったなしで打開の道を見つけてゆかねばならない義務を背負っている。

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なお、この大村さんの確率本からタイプで写し書きをしているあいだに、参考文献を思い出したので、紹介しておく。またいつか機会があれば詳しく紹介したい。:

小島寛之 確率的発想法 数学を日常に活かす NHKブックス 2004年。

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