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「白村江」以後も、倭国(日本)の外交体質は変革されなかった。

2016年2月11日 木曜日 雪・ときどき曇りときどき晴れ 屋根に積もった雪が重くのしかかり今日の陽差しで切れて落ちた。車庫のシャッターが大きくへしゃげてしまった。サイド入口の扉は開けられなくなって、こちらからもアプローチ不能。シャッターの下部がレールから大きく外れている。雪解けを待って修理を依頼するしかなさそうだ。中の自動車は大丈夫だろうか。これからの落雪でさらに被害が拡大しないだろうか。ひどく心配である。それでも今日は落雪の下敷きにならなかった無事に安堵すべきと思う。

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森公章 「白村江」以後:国家危機と東アジア外交 講談社選書メチエ 1998年

(「白村江」の)敗戦によって日本は唐と同様の律令国家建設の必要性を実感し、唐文化の全面輸入、律令制度の構築に邁進することになる。隋・唐で完成された律令国家というシステムの導入はみごとに実現し、七〇一年の大宝律令の段階で一応の達成がみられた。一方、白村江の戦以後、朝鮮半島における唐と新羅の戦争、新羅の勝利による唐の勢力の駆逐があり、また唐と対抗する新羅が日本に「朝貢」し、朝鮮諸国に対する日本の「大国」としての体面が保たれたことなどによって、日本の外交方式は変更を迫られずにすんだ。このことが、二つの対唐観の成立や文物の獲得を主とする遣唐使の派遣、また朝鮮諸国に対する主観的外交観の保持を可能にし、外交体質や国際情勢の把握の仕方の面では、変革が行われないままになったと見ることができる。(森、同書、p226)

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