literature & arts

上からも下からも、そしておそらくは四方八方から、この疎みと憎しみの眼がおれに集まっているだろう。

2023年3月27日 月曜日 曇り

山本周五郎 ながい坂(上・下)新潮文庫 昭和46年(オリジナルは新潮社から昭和41年)

 ・・彼は自分のことを、流れの中の一つの岩のように思った。・・すぐ向こうの早い流れの中に岩があって、まわりをすっかり水に取り囲まれ、絶え間なしに白いしぶきを浴びていた。ちょうどあの岩のようだ、と彼は思った。まえにはめみえ以上の者たちから疎まれ、いまでは徒士組の者たちから憎まれている。上からも下からも、そしておそらくは四方八方から、この疎みと憎しみの眼がおれに集まっているだろう。せめて井戸先生ぐらいはと思い、彼はそっと眼をあいてみたが、もう井戸勘助の姿もそこにはなかった。(山本、同書、p88)

**

 ・・平侍から出た人間が、もし出世して重職にでもあげられるとすると、これまでのようにうまくはいかないと思う。主水正に出世をさせないような手筈をとるか、さもなければいまのうちに紐を付けておくか、どっちかの手を打っておかなければなるまい。(山本、同書、p139)

 ・・そういうずばぬけた人は、とかく悪人になりやすい、よくある話ですが、そういう人物は良吏になるよりも、冷酷であくどい奸物にになりやすいものです、そのほうにこそ注意すべきだと思います。(同、p139)

**

 ・・「重いな、重すぎる」と主水正はまた呟いた。声は呟きだが、その調子は悲鳴のようであった、「おれには背負いきれない、逃げ出してしまおうか」(山本、同書上、p179) ・・いますべてが重荷だと感じ、いっそ逃げ出したいと思ったのは、事実だ。おれにはそういう弱さと、めめしいところがある、ということを認めなければならない。本当のおれは弱くめめしい人間なのだ。決して英雄でもなければ豪傑でもない、徒士組頭の子に生まれた平凡な人間だ。・・正躰(しょうたい)は平侍の子であり、弱くてめめしい小三郎にすぎない、これが正真正銘なところだ、おれはその上に立っているんだ」  涙の乾いた彼の眼に、力のこもった光があらわれ、背筋がまっすぐに伸びた。おれには味方はない、おれは自分ひとりでこの道をあるいてゆくだけだ、と彼は思った。(同、p181)

**

  ・・独りになると、彼はふるえだした。ーーそれが怒りであるか、妻に公然と無視された自分の、みじめさのためであるか、どちらとも判然とはしなかったが、そのふるえは暫くのあいだ止めることができなかった。・・・(中略)・・・ ーーなにか困ったことでもあるのかね。  初めにそう云う声が聞こえた。いつどこで聞いたのかわからなかったが、慥かにかつて聞いた声だし、いまそれは彼に向かって呼びかけていた。そして、それが誰の声であるかを思い出したとき、急に可笑しくなり笑いがこみあげてきたのだ。・・・(中略)・・・ それは気遣わしげでもあり、少しばかりからかうような調子でも合った。そして、ぼろを着た髭だらけの老人の顔が、自分を覗きこむようにさえ感じられた。(同、p187)

**

補註: 総登場人物表は以下のページに・・ http://yamashukan.la.coocan.jp/sub16s11.html

補註: 訓みの難しい漢字・熟語など、またその意味や語源:

主水正 もんどのしょう 

 主水(もんど)

櫨 はじ 

  1.  ハゼノキの別名。
  2.  襲 (かさね) の色目の名。表は赤、裏は黄。一説に、表は黄、裏は萌葱 (もえぎ) 
  3.  「黄櫨色」の略。

右筆・祐筆

表祐筆・・ウィキペディアによると・・・徳川将軍家のみならず、諸大名においても同じように家臣の中から右筆(祐筆)を登用するのが一般的であったが、館林藩主から将軍に就任した徳川綱吉は、館林藩から自分の右筆を江戸城に入れて右筆業務を行わせた。このため一般行政文書の作成・管理を行う既存の表右筆と将軍の側近として将軍の文書の作成・管理を行う奥右筆に分離することとなった。当初は双方の右筆は対立関係にあったが、後に表右筆から奥右筆を選定する人事が一般化すると両者の棲み分けが進んだ。奥右筆は将軍以外の他者と私的な関係を結ぶことを禁じられていたが、将軍への文書の取次ぎは側用人と奥右筆のみが出来る職務であった。奥右筆の承認を得ないと、文書が老中などの執政に廻されないこともあった。また奥右筆のために独立した御用部屋が設置され、老中若年寄などから上げられた政策上の問題について将軍の指示に基づき調査・報告を行った。このために、大藩の大名はもとより、江戸城を陰で仕切る大奥の首脳であっても、奥右筆と対立することは自己の地位を危うくしかねないものであった。このため、奥右筆の周辺には金品に絡む問題も生じたと言われている。一方、表右筆の待遇は奥右筆よりも一段下がり、機密には関わらず、判物朱印状などの一般の行政文書の作成や諸大名の分限帳旗本御家人などの名簿を管理した。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

**

補註: 訓みの難しい漢字・熟語など、またその意味や語源(続き):

扶持vs役料・・私のいただく物は扶持ではなく「役料」であるから、わたくし事には一文も使えない(山本、同書上、p119)

曲街(まがりまち)

青淵(せいえん)(あおぶち)

主殿(とのも)

主税(ちから)

頼母(たのも)・・https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119198136

「たのも」とは、東百官(あずまひゃっかん)と言う物の一つで、「頼母」と書きます。 東百官は関東地方において武士が称した官職風の人名で、朝廷における官職には存在せず、あくまで朝廷の官職を模倣してつくられたものです。 別名、相馬百官ともいい、平将門が新皇を称して新政権樹立を図った際に設けた官職体系であるという伝説もあります。 朝廷の律令官制に基づいた公卿百官に対して、関東における官職風の人名であることから、東百官、武家百官ともいわれました。主に江戸時代以降称されることとなり、江戸時代の学者は、「由緒正しからず、名乗るべからず」と評していましたが、武士の間では有力武家、名門の子弟までもが称しまた。 百官名同様に、名字の次、諱の前に入れて名乗っていました。 主な東百官の例 頼母、源内、十内、左内、右内、左門、右門、伊織、左膳、右膳、小膳、左平、右平、要人(かなめ)、数馬、平馬、兵馬、藤馬、弾馬、牧太、武極、蔵主(くろうず)、音門(おんと)、自然(じねん)、清記、弥刑部、大所化(おおしょけ)、小所化、多門、宮門(くもん)、一学、采弥(うねね)、采殿、典礼、典女、遠炊、斎(いつき)、鵜殿、丹宮、将殿、主尾、文内、文庫、愛助、隼人助、小源太、左源太 など
主な例 西郷頼母、渡辺数馬、結城数馬、平賀源内、橋本左内、織田左門、本多伊織、丹下左膳(作品中の人物名)、寺西要人、清水一学  https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q119198136 <以上引用終わり>

**

**

*****

*********************************

RELATED POST