philosophy

小浜逸郎 癒しとしての死の哲学

2020年7月15日 水曜日 晴れ、夕方(私の上空では)雷雨(夕立)

小浜逸郎 癒しとしての死の哲学<新版> 王国社 2002年(オリジナルは1996年)

普通の人の日常性を内在的に肯定する

・・このように死への直面から頽落的に逃避するために不断にそれに無関心を配慮するというあり方は、大多数の普通の人が普通の人として生を歩むかぎり、およそ動かし難い必然性をもっているということになる。だが、そうだとすると、なおのこと、私たちは、人間の日常的なあり方にたいして厳しい選択を迫られることになる。  すなわち、「ひと」的なあり方一般を超越したある架空の一点から、それを全体として批判するような視座に固執するか、そうでなければ、その様態そのものを肯定することのできるとらえ方を新たに模索するか。そしてハイデガーが現象学という意匠に注入している手つきは、明らかに前者である。  ・・・(中略)・・・  これは、私自身の立場からは、二重の意味で納得できないものである。つまり第一に、彼のとらえ方は、人間の日常性が死によって規定されているあり方を、本当にそのものとしてあるがままにとらえているのではなくて、ある理念からの副次的・劣位的な派生形態、ないしは転落形態としてとらえることによって、現象学に不純なものを導き入れている。また第二に、普通の「ひと」の日常性そのものを内在的に肯定できない思想を、私自身はどうしても受け入れがたい。(小浜、同書、p190-191)

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