philosophy

不幸感情が、自分自身の過剰な意味追及の動機から発しているものではないか見極めることが大切。

2020年7月22日 水曜日 曇り時々雨

小浜逸郎 人はなぜ働かなくてはならないのか 新しい生の哲学のために 洋泉社 2002年

・・私たちは、意味の感じられない生に耐えることができない。そしてたしかに「普通に生きること」のなかには、あまりにもそういう無意味感を強いてくる契機が多い。しかし、・・人性全体にあらかじめ与えられた意味があると考えることは、明らかに虚妄である。「意味」や「目的」の観念とは、もともとかぎられた生活行動のなかで、いかにそのつど自分を充実させるかという動機にもとづいて設定される意識のはたらきである。だから、大事なことは、人性全体の意味や目的をむなしくその外側に探し求めるのではなく、与えられた条件にしたがって、そのつど自分を充実させ得るような意味や目的をうまく作りあげることである。

 人間の不幸感情の発生と継続には二つの機序がある。一つは現実的な災厄や理不尽が彼を襲うことであるが、もう一つは、自分自身が人生全体に過剰な意味を求めることで、こちらは人間のやっかいな本性に根ざしている。

 人間は、自己の来歴の記憶からたやすく逃れられず、狭い日常的関係の枠から脱出することもなかなかかなわず、またことに近代社会では、他人との比較や評価にかかわる不安からも自由になれない。そしてそのことによって、挫折感、失意、後悔、怨恨、嫉妬、倦怠などのネガティヴな感情をいたずらに増大させることが多い。

 ムルソーが死刑判決を受けながらも、自分の人生を「幸福だった」と感じたのは、彼がこのことをよくわきまえていて、不幸感情をいたずらに増大させるような精神態度からかぎりなく無縁な生き方をしていたからである。それは、つらいことを運命としてあきらめるというのとは、少しだけ違う。与えられた条件そのものを自分自身の条件として引き受け、生活と観念の不釣り合いな落差をできるだけ切りつめる生き方である。

 不幸感情はどうすれば克服できるか。・・現実的な災厄や理不尽に対しては、力の及ぶかぎり闘いつつも、そのうえで、その不幸感情が、自分自身の過剰な意味追及の動機から発しているものではないのかどうか、よく見極めることが大切であろう。人生は「だめもと」と心得る、といったらいいであろうか。(小浜、同書、p218-220)

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1960年(ウィキペディアより引用)
モンパルナス(ウィキペディアより引用)

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