culture & history

二人の高氏と正成:吉川英治・私本太平記

2020年3月4日 水曜日

吉川英治 私本太平記(一)〜(四)吉川英治歴史時代文庫63〜66 1990年

補註: 私本太平記は文庫本にして全部で8冊、4,000ページほどもあろうかという大部なものなので、読むのが遅い私などは通読終えられるかおぼつかない。それでもようやく4冊目までを読み終えた。のこりは2,000ページ。

補註: 私は歴史書を読むのは好きだが、歴史小説を読むのはいささか苦手としており、なかなかページがめくれない。歴史そのままが好きな私としては、歴史小説の中では、先日通読した吉村昭氏の「赤い人」のような淡々とした短い叙述が肌に合う。

けれど、思い返せば小学校の6年生の秋冬の頃、同じ吉川英治氏の「三国志」を毎日少しずつ読み進め、大部の3巻本を遂に読破・・それが私の読書事始めといって良いぐらいなので、吉川氏は私の恩人なのである。

今回の「私本太平記」でも、二人の高氏(足利高氏=尊氏と佐々木高氏=道誉)や後醍醐天皇、執権高時、高氏の弟の足利直義、執事の高師直など、史上の大物どもだけを(生きた人間として)生き生きと描くことに留まることなく、恐らく架空の女性・藤夜叉の人物像(足利直冬の生みの母の役)を産み出してさらに十数年にわたって希有な人生を生きぬく女性として育てたり、恐らく事績のほとんどわからない(平家物語の作者としての)覚一法師とその母、資朝卿の子・阿新丸(くまわかまる)、さらには兼好法師(吉田でも卜部でもなかった!)までも巻きこんでいきいきと大活躍に(今を生きる人として)描いているのである。この構想力には呆れるし、しばらくしてからは、吉川氏の人間としての豊かさに感激し、その才能に改めて感嘆の言葉を捧げてしまう。

この小説の中枢を占める二人の高氏の魅力は否定しようもない。特に、あの大変動の時代に常に権力のトップ集団の最上層に属して、しかも長命を全うした婆娑羅大名・佐々木道誉の時代を超えた魅力は大きい。その事績は伝記として幾つかの本にもなっているので、いずれは読んでみたい。勝楽寺にもお参りしたい。

四巻まででは六波羅探題の北条氏そして鎌倉での北条氏の最期までは読み進められていない。これほど多勢の殉死が過去にわが国の歴史であったことがあるのであろうか? 以後の室町戦国の世にもあったことがあるのだろうか?

徒然草(二百十五段)には五代執権時頼と平宣時が味噌を肴に酒を飲む場面が描かれているし、同じく、時頼の母が障子紙を部分貼りして倹約を諭す段もある。

【 徒然草 215段 】
 平宣時朝臣、老の後、昔語に、「最明寺入道、或宵の間に呼ばるゝ事ありしに、『やがて』と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、また、使来りて、『直垂などの候はぬにや。夜なれば、異様なりとも、疾く』とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのまゝにて罷りたりしに、銚子に土器取り添へて持て出でて、『この酒を独りたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。肴こそなけれ、人は静まりぬらん、さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ』とありしかば、紙燭さして、隈々を求めし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少し附きたるを見出でて、『これぞ求め得て候ふ』と申ししかば、『事足りなん』とて、心よく数献に及びて、興に入られ侍りき。その世には、かくこそ侍りしか」と申されき。 

そして、徒然草には言及されないものの、八代執権の時宗の責務と貢献は大である。

「私本太平記」話をもどすと、私の最も共感を覚える人物像は、多くの皆さんとも同じかも知れないが、千早城に籠城戦を戦ったあの正成である。10年以上も昔、神戸(湊川)を訪れた折には勇猛な騎馬像にお参りしたけれども、遠くない将来、河内や吉野の地を訪れて、千早の谷や山道も歩いて故人を偲んでみたいと考えているのである。これは三十年以上も昔から家人に話していたことでもあり、今だに実現の一歩を踏み出せていないことでもある。「・・・”家の小庭には花を作り、外には戦のない世を眺めたい、七生、生まれて平和を祈りたい”とする正成の言葉は、平凡にして至高の響きがある。」(松本昭 私本太平記の旅(四)、本書巻末、p529-530)

**

道誉も急に腹の底をかえていた。高氏はほんとにおれを信じている! そう彼も信じ込んできた容子だった。・・こうすべてに、あけっ放しな高氏が、彼には次第に利用価値の大きな愚直そのものにおもわれてきたのであった。(吉川、同書、p492)

佐々木高氏道誉(ウィキペディアから引用)

勝楽寺の佐々木道誉公の墓所(ウィキペディアより引用)

**

日野資朝卿(ウィキペディアから引用)

補註: 老いさらばえた?むく犬を引かせているところから、徒然草の百五十二段を思いだす。

**

阿新丸(くまわかまる)(ウィキペディアから引用)

**

父日野資朝卿の仇を伐つ阿新丸(くまわかまる=日野熊若丸)国芳;本朝二十四孝

**

会下山(えげさん)上の祈り:

正成以下、九百余騎が、この山上に陣取ったのは、建武三年の旧暦五月二十五日のこと。新暦の七月十二日に当たるから真夏の朝である。”丘の粗い地質が白っぽく空の輝きを照り返し、あちこちの草むらは、早くも草いきれで燃えていたーー”、と吉川氏はその日の会下山(えげさん)を描く。・・・(中略)・・・”家の小庭には花を作り、外には戦のない世を眺めたい、七生、生まれて平和を祈りたい”とする正成の言葉は、平凡にして至高の響きがある。吉川氏は、ただ一つこれを書きたいために「私本太平記」を書いたのではないか、とさえ思われる。・・”人間の争いの源である権力の魔力”を、この「私本太平記」で描き出そうとしてきた吉川氏が、いま正成の死に於いて、ただ一心に平和への祈りを捧げているのである。所詮あらがうべくもない人間の宿業に対して捧げるこの祈りの言葉を、無力者の呟きとするか、人間の叡智の出発点とするか、吉川氏が更に生き長らえたならば、これが次のテーマであったに違いない。それは愛読者に贈った吉川氏の一句  あとかたも なきこそよけれ 湊川  という詠嘆に、万感こめられているようである。(松本昭 私本太平記の旅(四)、本書巻末、p529-530)

**

**

*****

********************************************

RELATED POST