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「食」というものにおいて兼好法師がどのような考え方をもっていたのか?

2020年3月4日 水曜日 曇り

2018年10月10日付け河田容英さんのウェブサイトより引用:

https://bimikyushin.com/chapter_4/04_ref/tokiyori.html

徒然草 二百十六段・・兼好法師にこの話を伝えたのは誰か?

『徒然草 216段』で宴について兼好が述べている、「その時見たる人の、近くまで侍りし」。つまり「それを見ていたこの頃迄生きていた人に聴いた」という説明。

袈裟を纏った北条時頼

『徒然草 216段』にあるエピソード:これは後に室町幕府を開くことになる足利氏の三代目の祖である足利義氏が、北条時頼を招いたときの話である。

【 徒然草 216段 】
 最明寺入道、鶴岡の社参の次に、足利左馬入道の許へ、まづ使を遣して、立ち入られたりけるに、あるじまうけられたりける様、一献に打ち鮑、二献に海老、三献にかいもちひにて止みぬ。その座には、亭主夫婦、隆弁僧正、あるじ方の人にて座せられけり。 
 さて、「年毎に給はる足利の染物、心もとなく候」と申されければ、「用意し候ふ」とて、色々の染物三十、前にて、女房どもに小袖に調ぜさせて、後に遣されけり。その時見たる人の、近くまで侍りしが、語り侍りしなり。 

宴の主人の足利義氏

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『徒然草 215段』の始めには、「平(北条)宣時朝臣が、年老いて後、昔語りに…」とあり、兼好法師は、生きている北条宣時から直接、北条時頼と宣時が味噌を舐めながら酒を飲んだ話を聴いて、それを記していることが分かる。この北条時頼の味噌の話は『徒然草 215段』、そして北条時頼が足利義氏に招かれた宴の話は『徒然草 216段』と連続した記述となっている。  もしかすると、215段で北条宣時に聴いた流れで、そのまま216段の話も聞いて書いたとも考えられないだろうか。同じかなりの年配の人物に北条時頼に関するエピソードを聞いたということろも共通していることからもその可能性は非常に高いように思われる。

北条時頼(最明寺入道)、足利義氏(足利左馬入道)、隆弁が集まり、「なまぐさもの」を食べたことを『徒然草 216段』で記述しているが、ここでそのことを非難するようなニュアンスはまったく感じられない。むしろこの宴の雰囲気を、ざっくばらんで打ち解けた好ましいものとして述べているように思われる。 

・・こうしたバックグランドが見えてくると、それまで兼好法師に感じていた「食」における観点の矛盾が解消された思いである。だがそれで完全にスッキリしたかというと、また別の複雑な感覚が自分の中には残ってしまっていることは否定できない。 
 なぜならば、そうなると小林秀雄が兼好法師について、「ものが見えすぎるが故に、すべては書かずに我慢した」という評論も再検討される必要だからである。実際に兼好法師がそのような人物であるのならば、兼好法師は、書くことを我慢したのではなく、それ以上は書けなかった(それ以上の深さがなかったから)ということになる。

以上、2018年10月10日付け河田容英さんのウェブサイトより引用:

https://bimikyushin.com/chapter_4/04_ref/tokiyori.html

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