culture & history

入唐僧の活躍の背後には、二度と日本の土を踏むことができなかった、多くの僧たちの犠牲があった。

2021年3月7日 日曜日 曇り

川尻秋生 平安京遷都 シリーズ日本古代史⑤ 岩波新書1275 2011年

・・少ない入唐経験者が日本の文化に大きな影響を与えたことになる。・・もし、最澄や空海が第三船や第四船に乗り込み、難破して渡唐できなかったとしたら、平安時代の宗教界はまったく異なったものになっただろう。さらに、天台宗からほとんどの鎌倉新仏教が生まれたことを考慮すれば、その影響は現代に至るまで計り知れない。島国日本の宿命とは言え、中国文化は、かなりの偶然性と選択性をもって請来されたと言えるだろう。(川尻、同書、p84)

・・ここで、後の歴史を見通してみるならば、次のように言うことができるだろう。真言宗は、空海が恵果の正統な流れを汲んでいたため、完成された形態として伝来した。したがって、以後、空海と比肩しうる僧侶は輩出しなかった。一方、天台宗は、最澄自身が空海から灌頂を受け、また空海に経典の貸し出しを求めたことからもわかるように、いまだ未完成の域にあった。だからこそ、後の時代になって、円仁・円珍のような入唐弘法僧が現れたし、鎌倉新仏教の担い手たちの多くも、天台を出発点としながら、新たな宗派を興したとも言える。(川尻、同書、p77)

・・円珍以降の入唐には、日本に来航していた中国や新羅の貿易船が用いられた。・・民間では、従来にも増して頻繁な交流があった。むしろ、こうした交流こそが遣唐使を必要としなくなった大きな原因であったといえるだろう。

しかし、このような入唐僧の背後には、般若三蔵のもとで梵語経典の漢訳に当たりながら毒殺された霊仙(りょうせん)、円仁とともに入唐し、会昌の法難に遭いながら三〇年近くも唐で修行・集書活動を行い、帰途日本を目前にしながら海の藻屑となった円載、宗叡とともに入唐したものの、中国仏教に飽きたらず、インドへの求法を目指し、羅越国(シンガポール付近)で亡くなった真如(平城天皇の子、高岳親王 たかおか親王)など、二度と日本の土を踏むことができなかった、多くの犠牲があったことを忘れることはできない。(川尻、同書、p88)

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