2021年8月20日 金曜日 晴れ
小浜逸郎 結婚という決意 PHP研究所 2007年(1992年・草思社から出版された「人はなぜ結婚するか」を改訂・改題したもの)
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自分を「有限化」する
・・無限なものを軸とした自我のあり方は、また、かならずいったんは有限なもののほうに帰ってきて、そこに自分をぶつけて自分を試されるという過程を経なくてはなりません。いいかえると、青春期に育てられた抽象的な自我は、積極的に自己破壊を経験することによってこそ、自分をより豊かなものに成熟させてゆくことができるのです。
ところで、そのような自己破壊の経験は、大きくいって二つの面ではたされます。ひとつは社会的な労働であり、もうひとつはエロス的な関係を通じてです。そして、この後者の過程での自己破壊を、もっとも徹底的に、長きにわたって経験させる営みが結婚であるということができます。(小浜、同書、p86)
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・・周囲に公表し承認してもらうという外なる儀式性と、自分たちが自分たちの決意の意味を確認するという内なる儀式性ーー結婚に踏み切るということには、もともとこのような二重の意味が含まれていたのかもしれません。・・・(中略)・・・ただ、婚約、結納、挙式、新居への移転、といった外側の時間の流れに振りまわされて、自分なりの迷いや納得の度合いを確かめ、また相手とそれを交流させるための「内側の時間」をもてないようなことになると、それはあまり幸福ななりゆきではないといわなければなりません。・・・(中略)・・・結婚に踏み切るにあたっては、ともかく二人で迷う時間を共有して通過することが必要だということなのです。それが「内なる儀式」ということです。 くりかえしますが、事前に相手を知り尽くすことは本来的にできませんし、相手との生活を周到にイメージしておくこともあまり意味がありません。結婚は、まだ見ぬ日常性への飛躍であり、実存的な変容をわが身に引き受ける決意なのです。迷いはあって当然、迷わぬ結婚などありえない、しかし、最終的には、迷ったってしょうがないのです。(小浜、同書、p248-249)
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