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我に何の罪ありや!

2022年2月22日 火曜日 雪(今年は札幌も雪が多く、積雪も深い)

神野正史 世界史劇場 春秋戦国と始皇帝の誕生 ベレ出版 2021年

長平の戦いでは、あと一戦で趙を亡ぼすことができたのに、丞相・范雎の陰謀によって停戦・撤退を余儀なくされ、ここに范雎と白起の確執は決定的となりました。

原注: どの国でも文官と武官の対立は避けがたいものがあること・・この両者が固く結ばれていれば国は栄え、反目しあえば衰えます。 昭襄王の頃の秦はすでに天下を狙えるほどの国力を誇り、范雎・白起などのようなすぐれた人材に恵まれながら、結局これをなし得なかったのは、その両者の仲を取り持つことができなかった昭襄王の器量の小ささに拠るところが大だったと言えます。(神野、同書、p246)

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ーー我に何の罪ありや!

さきほど「たとえ誅戮されても・・」と大見得を切ったのに、いざとなったらこんな泣き言を吐くとは、「なんだかんだ言っても、大功ある自分が誅戮されるはずがない」とタカを括っていたのでしょう。

  しかし、しばし呆然自失したあと、彼は嘆息します。

ーー思い返せば。わしは長平をはじめとして、これまでどれほどの者を殺してきたことか。それが死に値する罪ということか・・。

こうして前257年、白起自決。彼の死は、”ひとつの時代の終わり”を象徴していました。

まず彼の死の翌年(前256年)には、ついに東周王朝が滅亡。・・・(中略)・・・

さらにその翌年(前255年)には、白起将軍を陥れた丞相・范雎も処刑され(原注#)、その4年後(前251年)には半世紀以上(前301〜251年)にわたって秦王として君臨してきた昭襄王も亡くなります。

・・・(中略)・・・ もし昭襄王がこの二人(白起・孟嘗君)を手に入れ、彼らの才を如何なく発揮できる場を与えることができたなら、彼の大で天下は統一され、彼が「始皇帝」となっていた可能性すらあります。(神野、同書、p254〜255)

原注# 1975年になって、この当時に執筆された一次資料『編年紀』が発見され、そこには「王稽(范雎を昭襄王に推薦した人物)に連座して、この年(前255年)処刑された」とあります。資料価値的にも歴史の流れ的にもおそらくこちらが史実でしょう。(神野、同書、p253)

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蒙恬将軍! そちは副将として従え! (神野、同書、p308)

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・・そして「過渡期」とは、人であれ、物であれ、組織であれ、制度であれ、「すべての”旧きに属する物”は例外なく片端から消えていき、”新しきに属する物”だけが生き残ることが赦される時代」だということを我々は本書から学んできました。

 六国が亡びたのは、教科書的には「秦の軍事力により」かもしれませんが、本質的には彼らが「”旧”に属していたから」であり、秦が天下を獲ることができたのは、秦が「“新”に属していたから」にすぎません。(神野、同書、p329)

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