culture & history

現実の世界・この世の生への信頼と楽天性:中国人における現世とその超脱

川勝義雄 中国人の歴史意識 平凡社ライブラリー1400 中国人における現世とその超脱

中国民間宗教の現世的性格と、荘子の超脱の精神との間に何らかの共通の地盤を考えられるかどうか(川勝、同書、p148−149)

中国人は精神と物質を区別しない。世界にはきわめて稀薄な空気のごとき状態から、具象的な物へ、目に見えない、形のない状態から、目に見える、形のある状態へと、あるいはその逆の方向へと、中断なく連続する唯一のものしかない。これを中国人は「気」という。(同書、p150)

身体は万物と同じく気からできている。・・・従って神々も被造者であり造物者ではない。造物者は混沌の分解を作動させる何ものか、力とでもいうべきものとするよりほかない。実際に朱子はそのような方向で宇宙論を考えている。(川勝、同書、p151)

「気」の一元論:
気というのは水蒸気のようなものであり、物質即エネルギーともいうべきものである。したがって気一元論とは最も根源的な意味で一種の唯物論であろう。天地の生成運行には「気」のはたらきによっておのずから進む方向ができてゆく。それが「道」である。人間を含めて世界の構造がこのようなものとして自覚されるとき、「我々は天地が大きなルツボで、造物者が偉大な鋳物師だと悟ったなら、どこへ行ってもよいではないか」、・・・という悟りの形(荘子・大宗師編)が出てくる。・・・そこには世界、あるいは世界を動かす根源的なものへの信頼があり、諦観というよりもむしろ積極的な摂取参入がある。そこには後に印度から来る輪廻転生への怖れないし嫌悪を哄笑する底の磊落さが感じられる。私は中国人の精神の根底に、このような現実の世界、ないしこの世の生への信頼と楽天性がひそむように思われてならない。それは普通の中国人の追究する目的が、現世的な幸福であり、またその追究が粘り強さを極めることと無関係ではないと思われる。・・・近世儒家の大宗となる朱子の自然学・宇宙論はまさにこの気一元論の上に壮大な規模で構想されたのであった。(川勝、同書、p154)

*****

**********

RELATED POST