2015年12月15日
司馬遷 史記6 歴史の底流 村山・竹内・訳 徳間文庫 2006年(オリジナルは1988年・徳間書店)
范蠡その後:
范蠡、海に浮かびて斉に出で、姓名を変じ、自ら鴟夷子皮と謂い、海畔に耕し、身を苦しめ力をあわせ、父子、産を治む。・・・(中略)・・・間行してもって去り、陶に止まる。・・・(中略)・・・ここにおいて自ら陶朱公と謂い、また約要して父子耕畜し、廃居す。(同書、p424)
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故に范蠡三たびうつり、名を天下に成す。いやしくも去るのみにあらず、止まるところ必ず名を成す。ついに陶に老死す。故に世、伝えて陶朱公という。(越王勾践世家)(同書、p437)
<世家>のなかに、一臣下の記述がこれほど大きな分量を占めるのは特異である。<越王勾践世家>で司馬遷が語りたかったのは、越や越王の命運よりも、むしろ范蠡という希有な人格の、時代をこえた明哲ぶりではなかったか。好敵手でもあり、時代と格闘して死んだ伍子胥と比較するとき、その生き方はじつに対照的である。(同書、p438)
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訳:
また約要して 新たな計画のもとに (同書、p423)
廃居す この文脈で廃居の意味不明。宿題とさせてください。
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<以下引用、再掲>
・・・范蠡にも、また鴟夷(しい)の物語がある。・・・(中略)・・・かれは、名を鴟夷子皮(しいしひ)と改め、ひそかに海上にのがれて斉(せい)に去った。のち陶朱公とよばれる長者の名が世に知られるようになったが、それが范蠡の世をすてた姿であった。おそらく功成って殺された伍子胥のことが、かれの脳裏にあったのであろう。
この范蠡が、越をすてて海上に去るときに、どうして鴟夷子皮などという名を用いたのであろう。それはすでにしるしたように、神判による敗者を、江海に投ずる処刑のしかたであり、そのときに用いる革袋である。その名をもってみずから名づけるのは、国を棄てて去る亡命者の、自己詛盟的な方法であり、亡命者としての儀礼であったのであろうと思われる。(白川静 中国古代の文化 講談社学術文庫 p119-121より引用)
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