culture & history

家持沈黙の謎:文学の貴族化による源泉の枯渇

2016年4月13日 水曜日 曇り

白川静 後期万葉論 中央公論社 1995年

現実感情のゆたかな防人歌:文学はゆたかな生活感情に支えられて育成される

文学は一般にゆたかな生活感情に支えられて育成されるものであって、権力的な社会を基盤とするものではない。(白川、同書、p318)

短歌形式の創成にしても、それは人麻呂歌集歌・古歌集・作者未詳歌の広大な底辺をもつことによって成立したものと考えられ、文学はむしろつねに、底辺より上向する傾向をもつ。そして貴族文学として完成するとともに、自律的な自己展開の力を失って、また底辺からの新しい様式の擡頭を待つのである。(白川、同書、p319)

家持の晩年における沈黙のうちに、私はそのような短歌史的事実、短歌様式の時期的な限界の問題があったように思う。・・家持はおそらく、この現実感情のゆたかな防人歌の前に、自分たちの短歌の限界を感じていたのであろう。「春愁三首」にみせたその抒情は、たしかに「万葉」の限界を示すものであった。 「万葉」の歌を考えるときには、つねに古と今との関係を考えることが必要である。それは「万葉」の時代が、文学史の上で、一の完結性をもつ時代であったからである。(白川、同書、p319)

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家持も漢籍に通じた人であった。その才力は池主に及ばないとしても、性情ははるかに文学に適していた。彼は「山柿の文学」を逐いながら、しかしついに山柿の文学のもつ厳しさにせまることはできなかった。それは彼の文学が、相聞から出発するものであったからであろう。相聞から眺める人生と、ことばにすべてを託する呪歌的世界観から眺める人生とは、次元が違うのである。そこには、超えがたい、歴史的な断絶があるといえよう。そしてその情感のきわまるところに「春の野に」「我がやどの」「うらうらに」の春愁三首が生まれた。・・そこには、一つの様式をこえようとして喘ぐような、新しい感情の嘆きがある。・・自己放失のうちに春愁三首をえたりするが、それは彼自身の文学的な態度から、意志的にえたものではない。このように感傷的な文学のありかたは、近代的といわれる、拠り所のない憂愁といわれるものの性格に近いところがある。彼の悲劇は、その政治的な立場、つまりその運命にあるよりも、むしろ彼自身の内部的な性格に由来している。その文学に、外的な中国文学の影響があるとは考えがたい。(白川、同書、p346-347)

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補注:春愁三首を以下に再掲: 春日遅遅にして雲雀正に啼く・・家持春愁三首

春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鶯鳴くも(巻十九、四二九〇)

我がやどのいささ群竹吹く風の音のかそけきこの夕べかも(四二九一)

うらうらに照れる春日にひばりあがり情(こころ)悲しも獨りし思へば(四二九二)

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文学の貴族化、貴族化による源泉の枯渇
その彼が、「春愁三首」を最後の到達点として、歌を詠むことをやめ、晩年には沈黙の人となった。その沈黙が何を意味するものであったかは知られないが、私はそれを、文学の貴族化、貴族化による源泉の枯渇の意識が、彼のうちにあったのではないかと思う。沈黙の直接のきっかけは、家持が東歌・防人歌に接したことにあろう。つまり文学の源泉としての、底辺に接したことにあると思う。(白川、同書、p353)

家持はたしかに、万葉様式のもつ表現の限界を、自覚していたように思われる。「春愁三首」のような世界を、一の様式として確立することは、すでに不可能であった。それは古典的な風景画から、一躍して印象派の世界に入りこむようなものである。「春愁」の歌は、・・それが「万葉」の様式を超えた、一時の偶然にえた作にすぎないものであったことが、知られるのである。しかし一時の偶然にもせよ、その世界を知りえた家持にとって、すでにかれを支える現在はなかったといってよい。その上、防人歌は、かれに歌の原点のあるところを教えたが、かれはただ古い長歌の形式と、「春愁」の一首をなぞるような歌(補注)で、その感激を歌うにとどまった。

補注: 海原(うなはら)に霞たなびき鶴(たづ)がねの悲しき夕(よひ)は國邊(くにへ)し思ほゆ(四三九九)

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文学は、そのような底辺に発して、やがて上層の貴族社会・知識社会で完成され、その生命を枯渇して滅びる。「万葉」もまたそのような文学のありかたのパターンを示す一の類型として、とらえることができる。(白川、同書、あとがき、p365)

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2016年4月10日 晴れ

家持沈黙の謎

本来ならば、この道(補注:伊勢・狭残(ささ)・美濃・不破の行宮)は、かれの祖父安麻呂が、壬申の乱に天武に与して、赫赫たる功業をうちたてたところである。そのような歴史への回想、現実政治への感慨は、この歌人には全く無かったのであろうか。これほど歌に執着し、記録することを好んだ歌人が、最も記録的な、ただならぬ歴史の波動に身を委ねながら、ひたすら彷徨をこととし、諸処の行宮ではただ一篇の相聞歌のみをとどめていることは、全く不審というほかない。この作者には、時々このような沈黙の時がある。 彼が官人として、一時宮仕えをしていた紫香楽(しがらき)の恭仁の京についても、彼には、
今造る恭仁の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし
という儀礼の歌が、一首あるのみである。これも彼の沈黙であったのであろうか。それともそれは、この行幸と同じく、歌とは別の世界のことなのであろうか。あるいは彼の沈黙もまた、彼にとっての何らかの、一つの表現であったのであろうか。(白川、同書、p260)

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補注 紫香楽宮 ウィキペディアによると・・・

紫香楽宮
740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営してしばしば行幸した。これが紫香楽宮である。
翌743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願した。これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものとみられる。12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められた。

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